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2016年7月21日木曜日

フェミニズム、女性視点を語る女性というのは、

とても自己否定感が強いように感じる。とか書くとアレなのだろうけど、このブログは便所の壁でチラシの裏なので思いついたことを書いておく。

http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/pink

偶然、こんな記事を見た。

この記事がとりわけどうというより、ここで引用されている記事の対談に出てくるフェミニストな女性視点の女性もそうだし、それ以外で過去にどこかの記事やテレビの討論番組で見たのもそうだし、そういった女性というのが、えらく自己卑下しているようにいつも感じるんだよな、というのを思い出したという話だ。

それもちょっと歪んだ形で、女性としての自分を卑下して、その自分を一般化された女性そのものと同一視して、つまり自分こそはもっとも典型的な女性の一人であると前提して、その上で、自分が否定されているのだから女性が否定されているという三段論法により、女性に対する否定的なものの見方というのを語っているように見える。

飛躍もあるがそれ以上に歪んでるなと思うのは、誰よりも女性を否定しているのが他ならぬ自分自身であり、そしてそれは本人の多分に(悪い意味で)男性的な思考に起因していると見えることだ。

ものの考え方に女性的、男性的な考え方というのはジェンダーによらずともあろうし、ジェンダーによってもあろう。また、それが実際の肉体的な性とズレてしまうことも稀にあろう。ただ、どうあれ差があって類型があるのは間違いないことだろう。肉体にこれだけの差異を抱えて、脳にだけは何も差がないというのはむしろ無理があるから、専門的なことは考えなくてもそう結論するのが合理的だと俺は思う。

で、先に言ったようなザ・女性の方々の語り口というのが、知ってか知らずか非常に男性的だと思うのだ。語尾とかではない。マッチョなところがだ。そして、男性のステレオタイプな下劣さをなぜかいつも振りまいている・・・要は、本当の男性の考え方というよりは、女に対して露悪的に振る舞う男であるとか、一部の女が一部の男を見て勝手に作り上げたジェンダー的な卑しい男の感性というか、そういうものを醸し出している。

つまるところ、Anytime Anywhereであらゆる意味での暴力により女をあらゆる意味で犯すことしか頭にない男というのが基本的な彼女らの男性観であり、それを勝手に理解して悟って、そして結局怒って、結果として自身がその”男”のようになっている。あるいは、逆なのかも知れない。自身にあるそういう汚い感性を「男性的なものであって、自分は男性社会と戦うためにその男性的汚ささえも呑み込める、なぜならそれが男性特有であるというのは思い込みなのだから、女性の自分にだって持ち得る汚さであり、強さなのだ」ということかも知れない。そう言葉で主張しているのを見たことがある気はしないが、総じての印象としてそう感じる。

いずれにしても、そのイメージは実は「男性」ではなくて「オス」のそれに過ぎない。男性とオスは違う。同じというなら女性もメスで良いことになり、話はそれで終わり(本当に。なぜなら動物は話などしない。)なのだが、やはり男とオスは違う。人間は動物であるけども、それは人間が他の動物とまったく同じという意味ではない。男はオスではあるが、オスが男なわけではない。
しかも、オスのそのイメージさえ、ただのステレオタイプに過ぎない。

女性のために女性を語るその口は、結局のところ思い込みと混同と転嫁と、元をただせば逃避と、そういったものを綯交ぜにした男のものでも女のものでもない、なにか不思議な化け物のそれではないか。

とは言え、なんとも言えない自縄自縛というか自作自演というか独り相撲というか・・・そう言ってしまうと狭量だと非難されるから放置されるのか、社会に「ちょうどいい」人ばかりがいるわけでもないから、実際に確かに存在はする男性社会に対するカウンターウェイトとして取りあえず置いてあるのか。それが社会だというならそうなのか、と思うしかないが、何とも無様なものだなとは思わずにいられない。



もっとも結局のところ、器の小さい人間は男女を問わずにいると思うが、それが偶然にも女性であった場合、非常に具合のいい玩具になるのが「フェミニズム」、「女性視点」、「ジェンダー」そういったものになるということなのだろう。たぶん男の場合は愛国かなんちゃってオネェとかになるパターンの対照として。

もっとも、そういった問題は議論するべきものではあるし、まっとうに議論している人も多いのだろうが・・・そういう人からすれば、ああいうのは獅子身中の虫という奴なのではないかなという気がする。


まあ、若いころはそういうのもえらく腹が立ったものだが、年をとったからか、別にどこかで誰かが勝手に目を三角にしていることはもうどうでもいい。


ただひとつ気に入らないのは、くだらない話のネタにプリキュアを引っ張って来て、「ロリを犯す」とか「レイプする」とか、そういう言い方を堂々と散りばめると「わかってる」感があるでしょう?というバカなインテリ中学生みたいな自己満足が気持ち悪いということだけだ。

2016年7月14日木曜日

ジブリ映画の意味不明さ

多くの人が賞賛する、そして俺も賞賛するジブリ映画の意味がよくわからないとか、しかし正確に言えば「俺はわかってるけどお前らはわかってない」、というような話を見かけた。

http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150226

引用の引用になってしまっててアレで、語り口がずいぶん偉そうだなとか思ったりはしてなんだか読んでると不愉快だけど、言わんとすることはわかる気がする。

ただ、いうほど多くの人が誤解?をしながらジブリ映画を見ているのだろうか?

実は明確なテーマなどないことは創作ではわりと当たり前のことなのじゃないだろうか。戦争反対だけど兵器はかっこいいという感覚はむしろ普遍的なのではないだろうか。

ナウシカを観て戦争反対、森は大切、というメッセージが重要だと思う人がどれほどいるのだろう。あれはただ単にヒロインが強くてかっこよくてかわいくて、メカもかっこよくて、人間の戦闘も大型兵器や巨大生物の戦闘もひたすらかっこいいということが重要な作品じゃないのだろうか。見た結果、「ああ、火の七日間をもたらした人間の罪は深い、腐海の生態系を理解できない人間も愚かだ、虫をも愛でる博愛でエコロジーを理解することこそが重要だ」というような感想を持つことも自由だが、それはある意味ロールシャッハテストみたいなもので、受け手の問題だろうと思う。それがふつうの捉え方ではないだろうか。

まあ、友人知人の少ない俺の考える「ふつう」よりは多くのところで人の話を集約してるソーシャルな人の意見の方がきっと的を射ているのだろうが・・・。

俺の親は、映画や本にはテーマというものがあって、それを感じ取ることが重要だと子供の頃に教えてくれた。お陰で映画を見たりすることがちょっと億劫になった。
その後、俺はなんだかんだで、一部のメッセージ性の強いものを除いて、たいがいの映画や小説にテーマなど実はないと思って観たり読んだりしている。作者は、思いついた描きたいものを描いているだけのことがほとんどなんじゃないだろうか。
ただ、商業でやりながら、テーマを問われたりするので、思いつきで何かを含ませたりすることはあるんだろうけど、根本的には思いついたものを具体化しているだけじゃないかと。

戦争と兵器についても、子どもの頃にガンダムを観ていると「戦争の話で面白がっているのは日本の子どもだけだ」と親に説教されたものだが、しかし面白いものは面白いと思ったし、それだからといって実際に戦争が起こればいいと思っているわけじゃないのに何が問題なんだ?と思ったりしたものだ。戦争放棄を掲げる政党に肩入れしていた叔父がしかし趣味では戦闘機のプラモを作っていて、親父(叔父の弟にあたる)は、「わからない」と評していたが・・・なるほど、そうか。わからないものなのか。

道具に罪があるのではなく、道具を使って罪を犯す人がいるだけだ、とか、いやしかし兵器はその出自から罪を背負っているとか、そういう理屈以前に、F22とか格好いいでしょう。海でたまたま自衛隊の艦船を見た時にも、戦艦ではなくても、民間の船とは明らかに違うその質感に痺れるものでしょう。その後で、「これが使われたら人が死ぬのだ」と思ったとしても、だからといって「格好いい」と思った気持ちまで否定しなきゃいけないことはないだろう。

きっと問題は、立派な業績を残した偉人は常に一貫した崇高な信念に基づいて行動していたのであり、そこから勘案して人間が常にテーマと目的をしっかり持って生きていないと立派でいられないと考える、そんな思い込みにあるのではないかと思った。

とすると、しばらく前からビジネス界にも蔓延る、目標管理とかキャリアパスとか、そういう考え方もそういう延長にあるわけで、くだらない思い込みだと思ってしまう。今はそういう組織から自由の身だが、上長として部下に目標設定をさせなければならなかった頃には、苦労したものだった。・・・・自分に目標がないのに他人にそれを決めさせるという役割に。

ちなみに自分はプログラマだ。立派な目標は書けてもまともに動くプログラムは書けない社員もたくさん見たが、自分にはまともな目標は書けなくても十分に動作するプログラムは書けたと思っている。目標は、あって悪いこともないが、なきゃいけないものでもない。(『納期』とかの目標は別として。)

・・・と、ここまで来て、そんな考え方が「蔓延っている」と感じていたということは、なるほどやはりジブリ映画は誤解をされていることが多いのかも知れない。他の映画も。


ところで、この投稿のきっかけとなった冒頭の記事にいきついたそのきっかけは、「変態仮面」の実写映画を観たからであった。ろくに期待せずに観たのだが、面白かった。

実は言いたかったのはそれだけだ。


2016年4月21日木曜日

バイクを買おうかと思っている

このブログもたいがい不平不満ばかりだけど、久々に投稿してみようと思ったのは愉快なことだ。

10年は行かないか・・・しかし5年以上、まともなバイクには乗っていない。

16歳で免許をとってからの趣味だったバイク。ツーリングが好きでいろいろ乗り継いで、社会人になってから少しだけサーキット走行もしてみたりして、大型免許とってスーパースポーツに乗って。

ただ、自分はよくバイクを転かしてしまうので、肉体以上に財布にかかるダメージがメンタル的にきつくなってきて、手放してスーパーカブ125など買ってみて。結局、事故に遭うわ盗まれるわで、それならと手に入れたのが今も乗ってる125のスクーター。

メットインが便利だとか、通勤にも使うつもりだったとかそういう理由はつけられるが、たぶん、気分を変えたかったのかも知れない。けど、やはりスクーターは俺には合ってなかったようで、二度ほど少し遠くに走ってみたが全然面白くなく、通勤にも使わなくなったので、スーパーに買い物行く専用マシンでしかなくなっていた。

それもボロくなってきてるし、「もうバイクも乗らなかな」と思って毎年自賠責も1年更新してたのが・・・。

なぜだろう、しばらく前から非常にバイクに乗りたくなってきた。

今は主に自宅で仕事をしているので、毎朝の通勤もなく、そういう意味では生活は快適だ。料理の機会が増えて、すっかり自分で作った飯で飲むのが楽しみになってしまった(主に肉と油を活かした系統の)。

余裕こいて自宅で野菜やハーブも育てており、それを薬味にしてツマミを作るのも愉快だ。

まるで定年で隠居したおっさんのようだが、それは普通はその歳にならなきゃ出来ないというだけで、(一時的かも知れないが)40歳でその時間を獲得できている今の俺はラッキーであり、普通に楽しい。ランニングに勤しんだり、たまには登山もしたり。


だが、何か。何かが足りないという気がする。刺激が何もないわけじゃない。家で作業しているだけで、仕事は十分に厳しいし、チャレンジングなことをしているつもりだ。

けど、それでも。


自宅の作業机の前には窓があり、武甲山を右手に、秩父から奥多摩へと連なる山並みが見える。うちの近所は夕方にランニングをすれば、俺が勝手に「釧路」と呼んでいる大きな調整池の向こうに赤く染まる富士山もよく見える。


登山や釣りのために電車やクルマでそのあたりに行くことは最近でもたまにはある。けど、それはそれでいいけど、そうじゃない何かがしたいと思う。


バイクというのはやはり、移動手段ではないのだと思う。乗ることそれ自体が目的なのであって、それは他の移動手段で同じ目的地に行くことでは代替できない。

で、その「バイクに乗ることそれ自体」というのが、 やはり自分は好きなんじゃないかなと。まあ、いろいろな乗り方がある。けど、いま欲しているのは、陳腐な表現だが気ままな散歩のような乗り方だ。結局、俺は「一人でウロウロ」と言うのが大好きな性分なんだと思う。


残念なことに今は使える予算も少ないのだが、幸いなことに一時期の寒い時代が嘘のように、今のバイク業界は軽量級が活気づいている。何か手頃で楽しいマシンでも手に入れようと思う今日この頃だ。



・・・・けっして「ばくおん!」の影響ではなく!いや、ほんとに!






2015年9月16日水曜日

子育てが泣けるほど楽しい

娘はもう小学1年生。

学校も楽しいようで、毎日元気に登校している。先日授業参観にも行ったが、確かに楽しそうだった。

親の俺が言うのも何だが、娘はちょっと変わってると思う。世界に一つだけの花理論みたいなきれいごとではなくて、ちょっと変わってる。いつも空想話をして、空気が読めず、いきなり踊りだしたり、ちんぷんかんぷんな発言ばかりしている。動きもフニャフニャバタバタしてどこかおかしい。昔風に言えばトットちゃん、今風に言えば軽度の発達障害の気がある。

客観的に見るとふざけてるように見えたり、ひどくだらしなく見えたり、あるいはものすごく身勝手に見えることが多い。実際、行動はその通りだから、そうだと言われても否定は難しい。

だけど本人は、むしろいつでも至って真面目で、いろいろ考えて「きちんとしよう」と思っていて、そう考えれば考えるほど、子どもならではの知識の不完全さも手伝ってちぐはぐでおかしな行動をとってしまう。

親として見れば、ちょっと心配になるところもあるにはあるが、まあ微笑ましいものだ。なにせ本人はいつも至って大真面目なのだし。多少の空回りは健気にも見えてむしろ愛おしい。

学校でも、先生はおそらくよく配慮してくれてるのだと思う。よく出来たことは誉めてくれる一方で、きちんと出来ないことについて、注意はしても必要以上に責めたり罰を与えたりはしていない。ありがたくて、頭が下がる。

友達もちゃんといるようで。



・・・そうやって、不器用ながらアレコレ一生懸命な(傍から見たらサボってだらけてるように見えることもしばしばだろうが、本人としてはだいぶ頑張ってると思う)娘と、それをサポートしてくれてる先生、違和感なく接してくれている級友を見て、安心したり嬉しく思ったりする時に、一方でふと寂しく思うことがある。

いや。正直に言って、泣きたくなるほど悲しい気持ちがこみ上げることがある。







何で、俺の時にはそうじゃなかったんだと。

何で、俺が期待に胸を膨らませて小学校に入った時には、先生は俺を教室から追い出したのかと(俺の机は一時期廊下にあった)。

毎日男子とケンカして負けて、女子にはばい菌みたいに疎まれて、なのに先生すら味方にはなってくれなかった。俺は余りにも視野が狭く、自分が疎まれていることにすら気付けなかったから、先生のことは好きで、クラスの皆は友達だと思っていて、だけどあちらはそう思ってくれてはいなかった。気付けてなかったから悲しくはなかったが、いつも違和感があったし、やはり、どこか苦しいものはあった。

唯一、隣の隣のクラスのおばさん先生(いや、お姉さんだったのかも知れない)は、廊下で会うといつも声をかけてくれたり時には頭を撫でてくれて、幼心に「何なんだ」と思っていたけど・・・後から考えてみれば、俺の待遇を憐れんでくれていたのだろう。

その後、教師には「影がある」と言われ、女子には「根暗」と言われるようになった自分の性格を、その原体験に責任転嫁する気はない。たぶん、自分には元からそういう二面性がある。多弁で楽観的な部分と、寡黙で悲観的な部分と。

だから、幼いころの俺を義務教育の場で率先してクラスから弾き出すようなことをした若い先生を、今でも恨んではいない。それが、仮に俺の上履きがボットン便所に落ちていたり算数セットが消失したり、給食に雑巾が投げ込まれたりという日常を助長していたのだとしても、恨んだりはしていない。俺はどちらにしろ、自分で活路をひらいて、それなりに十分な稼ぎも得て、こうして愛すべき娘もいるのだから、かつての自分の境遇やそれに関わる人々に、感謝はしてもよいが恨みをもつことはないし、実際そんな気持ちはないのだ。

だけどふと、エキセントリックな娘にかつての自分を重ねる時に、寂しい気持ちになることがある。

妬ましいわけではない。ただ、戻ることのないかつての時間、疎まれながら過ごしていた幼い自分が少し不憫に思えるだけだ。良かれと思ったこと、頑張ったこと、出来たと思ったことが軒並み裏目に出て罰や嘲笑の的になっている少年の姿が哀しくて切なくて、少し泣きたいような気持ちになることがあるだけだ。

・・・まあ、そんなこんなを乗り越えたおっさんだから泣きやしないけど。


教育の現場にも未だいろいろ問題はある、政治にも社会にも、闇も病もある。だけど、それでも世の中は少しずつ良くなっているんだ、と思う・・・少なくとも娘が受け入れて貰えるような背景というのは、ここ10年ほどで大分進歩したのだろうし。

そう思えば、やはりそれは嬉しいことでもある。それが実感できるのは、楽しいことだ。

2012年10月21日日曜日

屋上バーベキュー

土曜日は熱を出してしまった娘が、今回は1日で立ち直ったので、今日、日曜日、約束していたとおりバーベキューをした。…屋上で。

まあ、バーベキューと言っても、ホットプレートだ。うちの屋上はコンクリだし、卓上グリルもあるから炭も使えないでもないのだが、やはり面倒臭い。先週買った新型ホットプレートの肉焼きプレートを活用してみることにした。



そうそう、ホットプレートを使えるというのはつまり、屋上にコンセントが引いてあるのだ。さすが俺。用意周到。うちの近所は高い建物は少ないので、座ってしまえば見えるのは青い空ばかりだ。秋空とは言え、直射日光は暑いのでパラソルを立ててその下で。

テーブルとかあればもっと楽かな、とも思うが、台風で飛んでったりしたら嫌だしな。







リブ上の部分はすり鉢状で、中央の穴から下の脂受けに脂を流すので、べったりしない。なかなか良い。

ソーセージはジョンソンビルである。このアメリカ産ソーセージはうまい。偏食の娘もこのソーセージはよく食べる。ひこざきはそのまま。俺はマスタードを付けて食った。粒マスタードとかでなく、まっ黄色でトロっとしてるアレ。最近こっちの方が好きだ。

そして、特売だった肉厚生椎茸。黄色いのは、ガーリックバターソースだ。これが溶けてぐつぐつ言ったら完成といった感じ。実に単純で、かつ食べごたえもあってうまい。

そして奥に見えるのは、マイ定番のネギカシラである。豚カシラと葱。見たらわかるか。


そして、牛肉は好きじゃない妻子にはあげない、パパ専用肉である。250グラムくらいの安い牛モモステーキ。バーベキューで薄切り肉とか焼き肉のタレというチョイスは、俺にとってはあり得ない。





リブ状のプレートはまるで網焼きのような仕上がりでいかしている。

これがすげえ美味かった。我ながら。

ちなみに味付けが一工夫あってだ。

ウスターソース(リーペリン)、ケチャップ、ローリエ、バジル、粗挽きブラックペッパー、鷹の爪、味の素、塩、白ワインを混合したタレをビニールに入れて、その中に漬け込んで置いた。

…ちなみに、実はこの材料は、キッチンで手元にあったものを片っ端から入れただけだ。…工夫してねえじゃん。でもバーベキューっぽくて美味かった。


ちなみに、500円くらいで買って来たワインを飲みながら2時間弱かな?やっていたのだが、いやあ、真っ昼間、青空の下で飲むワインというのは実に良い。果実酒、って感じがする。


娘には、「実はバーベキューで魚とかイカとかエビとか焼いてもいいのだよ」と今日教えてあげたので、秋のうちにまたやろうっと。

ガーリックバターソースは川魚にも美味いんだよな。


ちなみに俺が買ったのはこれ。

たこ焼きプレートはいらないと思ったので。無駄に豪華じゃない方が、収納も楽で使いやすい。箱に入れてしまい込んだりすると、使わなくなるから、そのままでシンク下の引き出しにしまってる。






2012年10月14日日曜日

電気バーベキュー

最近、立て続けにお好み焼きを作って食っていた。

「スマイルプリキュア」を見ていたら作りたくなったのがきっかけと言うのは内緒だが、娘も喜ぶし(そのわりに大して食わないけど)、そもそも好物だし、まあいいじゃないか。

で、テーブルにホットプレートを出して焼くのだが、このホットプレートと言うのが古い。何せ、妻が大学に入って一人暮らしを始めた頃に買ったものだ。妻の学生生活のみならず、俺との新婚生活、さらにその後を支えてくれた歴戦の活躍ぶりだが、さすがに子供まで加わると力不足が否めない。お好み焼きが、同時に1枚しか焼けないのだ。

それで遂に、新しいホットプレートを買うことにした。で、Amazonで検索すると…いやあ、さすがに隔世の感が。プレートだけが外して洗えるというのはもはや常識のようだし(うちにあるのはそうなってない)、そのプレートに各種のオプションが。さらに熱量も、うちのは200度までしかないのだが、250度とかまである。

で、結局買ったのは、TIGERのもので、フラットプレートと肉焼き専用板が付いたタイプ。Amazonは家電などは結構激安なことが多いのだが、今回はもともとの割引に偶然のタイムセールが重なって73%オフ、加えてポイントを持っていたので3000円台で買えてしまった。

お好み焼きは2、3枚行けるとレビューされていたし、肉焼きプレートにすげえ期待している。うちは屋上があって、何度かバーベキューなどしたが、やはり炭を使うのは気を遣うことが多く面倒だ。が、屋上にはコンセントも付けてあるので、今度はこのプレートでバーベキューをしよう。これは楽だ。炭はまあいいけど、実際は屋根のないところで食うということが一番重要なわけだからな。

来週末までには届くので、非常に楽しみだ。



2012年6月13日水曜日

6月のシカゴ、青い空と湖水、赤い月、そしてピザ

 突然だが、ミシガン湖からの夕日。


…て、サンセットクルーズ(45分で15ドル前後だった)しちゃってるぜ?I was there on businessのはずなのにな!

ということで、幸いなことに業界で世界最大とされるカンファレンスがシカゴで開催され
ていたため、シカゴに出張してきました。

行く前は特に予備知識もなく、有名だけど何があるってわけでもない場所だよなあ、なんて思っていたのだけど、行ってみたらこれが実に面白かった。



ミシガン湖の北西岸にいたから、夜には湖の水平線から昇る月が見え、これが朝日と同じで水平線ギリギリの時は真っ赤で奇麗なのだわ。でも23時頃だったので、チーズ食いながら写真を撮っていたら、マウンテンバイクに乗ったカッチョ良いポリスメン集団に「ガラゴー」だか何だか言われて追い出された。随分と治安の良い国である(本気で言ってない。ダウンタウンだからだろう)。




ちなみにシカゴは、スカイスクレイパー…おっと、高層建築の発祥の地だらしい。Congress Plaza Hotelという古臭い(1890年代建築だそうだ)ホテルに泊まっていたのだが、このホテルが実にロケーションが良く(そして素晴らしいのはロケーションだけとも言われる)、歩いて数分のところにシカゴ建築財団(Chicago Architecture Foundation)があり、空き時間に徒歩でのビル見学ツアーに参加した。アーキテクチャという概念は、建築界から輸入されてソフトウェア業界でも重要な概念であるから、これは見ておかないといけませんなと。

低層建築から高層建築への移り変わりと、同時にギリシャ/ローマ様式のネオクラシカルからモダンへ、その後ポストモダンへと移行する歴史を見た。…まあ、建築のことはよくわからんけどな。



ということで、いくつかハイライトを。

シカゴピザ


名物、シカゴピザである。

一応、サイズがいろいろあり、スモールは1〜2人用と書いてあった。だが、いくらアメリカ人でもこんなの一人で食うのが標準のワケはねえ。これ直径、普通に25cmくらいはあるからね。

ただ、味は実はさっぱり系だった。スペシャルというのを頼んだのだが、マッシュルームとオニオンとピーマンが具のほとんどで、チーズはたぶんモツァレラオンリーだから、意外とあっさり食えてしまう。結局二人で二切れ残したが、事前にチキンウィングとかモツァレラトマトとかいろいろ食ってなければ食えたかも。頑張れば。

ちなみに、この前の日には、リブステーキを食った。でかくて甘辛で美味かった。

そして、この後の日には、ホットドッグを食った。でっかいピクルス添えである。

ホットドッグ
しかも、シカゴ・リバーウォーク沿いのオープンカフェでだ。オシャレ過ぎる。

ビールは主に、Blue Moonと、Goose Islandを飲んでいた。Goose IslandはSummer Timeという奴が一番うまかった。

参加したカンファレンスのパーティでは、当然のようにローストビーフをやたら食ったので、もうこれでアメリカで食うべきものは全部食ったと言えるだろう(笑)。

有名な豆も見たし。

シカゴ・ビーン


海にしか見えないミシガン湖は走ったし。船まで乗っちゃったし。青いなあ。やたら青いな。日本で言えば白水湖とかと同じく、酸性の鉱物でも入ってんだろうな。



ハーバーにはスモールマウスっぽい形のバスもいたし。…釣り道具を持って行くべきだったか…。


天文台裏のハーバー

建築の見学もしちゃったし。これはあれだ。ネオクラシカルか。




それにしてもセグウェイが多い街であった。ほとんどは観光用のレンタルなのだが、これはホテルの向かいの大学の学生のマシンのようだった。


クロカン仕様のセグウェイX2

…そろそろ、エクストリーム・セグウェイが出現する頃合いかも知れん。


ちなみに、もちろん遊んでばかりいたわけではない。

今日も部下どもが帰ってから、23時前まで、既に数万字に達しているであろう出張レポートの続きを書いていた。ま、そういうの書くのも嫌いじゃないんだけどな。

2012年6月1日金曜日

とか言ってたら、わさわさ実がなって来た

日ごとにぐいぐいと実が増えて大きくなっている。来週中には食えるんじゃないかという気がするのだが、来週いっぱいは出張だ…。

2012年5月31日木曜日

ノイズキャンセリングヘッドホン

意外に安かったので買ってみた。
5000円ほど。Amazonで買ったが、迷った他の機種も含め、レビューを見ると効果があるだのまったく無いだの、百家争鳴で大変だった。

ただ、やたら低い評価をしているレビューは総じて頭が悪そうだったから、えいやで購入。

さっき早速装着し…深夜のリビングだからもとより静かだが、冷蔵庫の前に行ってみると、なるほどモーター音が消える。消える時より、モニターボタンでキャンセリング効果を切った瞬間の方がよくわかるな。

これは良いもの買った気がする。


2012年5月28日月曜日

スカイファーム

…屋上農園とかプランターガーデニングとか言うよりカッコよくね?いま考えた言葉なんだけど。タイトルね。

トマトに実がついた。
今朝、水やりの際に受粉をさせようと花を弾いたら古めの花が吹っ飛んだので、お?花が終わったなら実か?と思いよく見ると、小さな青い実が二つ。
かわいいですなー。

トマトは、全部ミニだけど三種類植えてあり、すべて花が咲いてる。食べ比べが楽しみだ。

あと、キュウリ。支柱を買うのが遅れて昨日立てたのだが、すでにある程度は地を這って伸びていたから、葉っぱが全部、縦になってしまっていたのだが。

一晩明けて見たら、葉の向きがすっかり変わってしっかり水平になっていた上に、これでもかとツルが巻き付いていた。

…動き速いなあ。俊敏だ。

他にオクラ、パプリカ、枝豆を植えてあり、皆元気。枝豆以外は冷やしうどんにでも乗せようと画策している。

2012年4月13日金曜日

ハッカーと画家、そしてジーパン

ハッカーと画家、という本がある。 数年前に読んで非常に面白かったのだが、最近ふと思い立って、再度読んでいる。ま、通勤電車内でも気の向いた時、iPhoneでのゲームの合間などにちょこちょこと。

 


最初の方の、ナードの分析(著者の自己分析)も非常に面白いというか、そうだよなあ…と頷かされると言うかだし、その他にも面白いことがたくさん書いてある。

最近流行りのビジネス書なんかが実にバカバカしく思えるような、「それ言っちゃオシマイだけどその通り」みたいな話が多くて、こういうのばかり読んでると会社の上司というか管理職の方々と真面目な顔してお話できなくなってしまうと心配になるくらいだ。

今度時間がある時に、気に入った名言をいくつか引用でもしてみようと思うのだが、とりあえず一つ、とても気に入ったものの見方を紹介しておく。

曰く、

流行の本質は、それが流行だとは誰も思っていないという点にある、

とか何とか。

いま手元に本が無いので、そのままの引用ではないが意味は合ってるはずだ。


これは、俺も昔から思っていたことだが、まあ奇麗な一文にまとめてくれたものだと。


ここからは俺の回想を述べる。

小学校高学年くらいの頃、ケミカルウォッシュのボンタンジーンズ(足首は非常にスリムなのだが、2タックとかの)が流行っていた。そう、まさに流行っていた。

で、社会の教科書か何かで70年代頃の若者の写真が載っていて(ただ写真が古かっただけで、若者の服飾文化云々という話ではなかった)、それを見て俺は大いに笑い転げていたのだ。

…ナニこのジーパン、ベルボトムっての?昔はよくこんなの穿いてたよな。だって変だよ、なんで膝細くて裾がやたら太いのさ!

中学はスリム/ボンタン全盛期にあたり、そのまま過ごした。高校生になった時も、そういう形の改造制服(実際は改造じゃなくて、そういう店で買って来るだけなのだが)を着用していた。

ところが、高校3年になった頃だったか。どうもこの、スリムズボンがダサくなって来たのだ。なんかオシャレっぽい者はむしろ標準的なストレートのズボンになっており。そこで俺も、もともと持っていた標準制服のストレートズボンを穿くようにした。

さらに大学に入る頃には、もはやジーンズはブーツカット全盛期であった。俺ももちろん、ブーツを履いてブーツカットのジーンズを穿いていた。いわゆるオタク臭さ全開の同級生が、いまだストーンウォッシュのスリムジーンズを穿いているのを見て、(自分もボーダーラインのくせに)うわ、だっせえな、何でモモ太くて足首細いんだよ、あり得ねえだろ、などと内心で笑っていた。

この時、もちろん、自分が数年前に正反対のことを考えていたという事実には気付いていた。

だが、俺は愚かにも、こう考えていたのだ。

やはり、スリムのケミカルウォッシュが格好いいなんて思っていたのが流行の恐ろしさだよな。あんな変なものが良く思えてしまって、フレアしたワンウォッシュのシルエットの格好良さがわからなくなるなんて。やはり、ズボンの形は本質的に裾広がりであるべきなのに。なぜって、その方が遠近法と裾が下がる視覚効果により脚がすらっとして見えるはずだし、理にかなってる。暗い色は脚を細く見せる効果もあるだろう。だが、明るく不自然なウォッシュ加工で、ロールアップして足首なんか出してたら脚は太く、短く見えるじゃないか。それが格好いいなんて、加工技術の発展で一時的に生じた麻疹のような流行による病的な感覚だよ…。

…。


そして、就職して数年、社会人になって、しばらくはスーツ生活だったがジーンズで出勤できるような職場に転職した俺は、ある時、若くオシャレな青年のズボンがスリムであることに気づき、しばらくは「へえ…」などとスルーしていたのだが、結局、なんだかブーツカットは古臭く思えてきて、スリムなズボンに乗り換えるのであった。

先日に購入したズボンも、ハードなウォッシュで明るめに加工されたスリム…まあ、むしろスキニーのデニムである。いまは裾をおろしているが、去年の夏などはロールアップで通勤していた。


もっとも、もはや俺は、だからと言ってブーツカットやストレートやベルボトムを「根本的にかっこわるい」などとは勿論思っていない。さすがにそこまでバカじゃない。

ただ、若かったとは言え、自分が、周囲の流行には左右されにくいなどと自認している自分が、思い切り価値観を流行によって塗り替えられていたという事実は、実に面白いと思っている。

俺は、ズボンの観察によって、流行と言うのは「これが流行っている」などと思ってるうちは本物じゃないのだな、とある頃に気付いていた。本当に流行している時には、それはただ常識的な価値観になっているのだ。





ま、ファッションの流行は、俺にとってはただの面白いネタだ。そこまでオシャレに拘ってるわけでもないし。

ただ、ビジネス界の流行には、しばしば辟易させられる。不惑も過ぎたような大人達が、流行に惑わされて右往左往して、したり顔で何か言ってるのを聞くと、笑うのも困るのも通り越して、何か悲しくなってくる。人間て、こんな程度なのかなと。

2012年3月6日火曜日

さば味噌がうまかったのでメモる

サバ味噌というのはたまに無性に食いたくなるメニューのひとつだが、以前は職場近くにばばあ食堂みたいな定食屋(良い意味で言っている)があってたまに食っていたものの、今の職場の近くにはそういう店がないので、ずっとご無沙汰だった。

ところが先日、スーパーで脂の乗ったサバが安かったのを発見して、初めて自作してみることに。これがうまいこと自分好みの味になったので、メモっておく。



  • 味噌 大さじ4
  • 酒 大さじ4
  • 生姜 1かけをスライス
  • 砂糖 大さじ4
  • 水 2カップ
  • 醤油 大さじ1と半分

味噌は、2さじは八丁味噌、2さじは普通の味噌(出汁入り合わせ味噌)にした。八丁味噌はこれ以上は増やさない方がいい気がした。変えるなら少し減らすとマイルドか。
あと、効果があるかよくわからないが、どこかのレシピに従い1さじは煮込み後に加えた。

水は、最初に見たレシピでは1カップだったが、鍋に入れたら少なそうだったので倍にした。煮詰めればいいかと思ったが心細かったので、他のレシピでは足している醤油を足すことにした。

手順は、

  1. 2枚おろし済みのサバに
  2. 熱湯を掛ける(まな板の上でやったが、やはり網やザルが良さそうだった。カスっぽいの出たから)
  3. 切って、十字傷を入れて、
  4. 仕上げ用味噌以外を解いた圧力鍋で30分煮て
  5. 仕上げ味噌入れて適当に煮詰めて、
  6. おしまい。




これで十分に背骨まで食えた。もうちょい煮たらもっと背骨がやっこくなるだろうが、身が正体無くならないかな?今度はそうしてみようか。

あと今回、酒と醤油が安っぽかったのだが、ここをもうちょい高級にすれば、よりうまいんじゃないかなあ。

清里の夜 (スノボー行った)

今シーズンは引っ越しも済んだし、ずっと御蔵入りしてるボードを一度でも使いたいなと思っていたが、ずいぶんと予定外な形でそれが実現された。

会社の同僚、と、言っても、以前一緒にボードに行った部下じゃなくて、同じかやや上のが組んだ企画に乗っかる形で、金曜夜発の一泊予定で清里へ。

なんと、同僚の一人が別荘がある(正確にはその親の所有だそうだが)とのことで。

正直、たいした期待もせずに、金がかからず時間も楽になるならとホイホイ着いて行ったのだが、まさかのリアルログハウスに薪ストーブ。


薪のはぜる音を聞きながら、赤松と白樺に囲まれたログハウスで深夜に缶ビール、という時点で俺のリゾート要求は十分に満たされてしまった。

「まったり」という表現も懐かしいが、まさにそんな感じの春間近の夜長に、もうおそらく本来の別荘オーナーのものであろうワインの一本でも空けて明日はそのまま帰ろうかなんて冗談も出たが、初志貫徹のために3時頃就寝。布団を使ってしまうと片付けが面倒だからとかそんな理由で寝袋で雑魚寝したが、意外なほどに暖かく、よく眠れた。

朝、予定より1時間ほど遅く起きて外に出ると、わずかな雨があるものの、おそらくゲレンデは雪がぱらつくくらいじゃないかという紙一重な天気。赤松にはリスが。前日には鹿もいたし。いい気分だ。



結局ゲレンデは、いくらか雪が舞うがあまり寒くないという具合のよい天気。

ファミリーに人気の平和なスキー場で、のほほんと楽しむ。

久々のボードはワックス不良もあり手こずったが、午後にはイイ感じになってきた。が、それと同時に体力も尽きてきて、足許が怪しくなってきたところで早めの終了。

日帰り温泉で露天風呂につかり、自分は運転が無いのをよい事に生ビールまで飲んでしまった。

飯も、高級なものは食わなかったがいろいろ面白かったし、久々にまともに遊んだ。

いやあ、やっぱりこういうのは必要だな。


ところで、行ったゲレンデが「サンメドウズ」というところだったのだが、昼にバイキングを食べた(これがまたなかなかうまかった)食堂のトレーには「キッツメドウズ」と。

なんと、俺が学生時代に一度だけ、仲が良かった高校の部活の先輩に誘われてスキーに(後から思えばそれは合コン?的スキーだったのだが)行って、全然合わない道具(身長より30cmくらい長い板とか)を借りて、何もわからずに頂上に行って散々な目に遭い、「二度とウィンタースポーツなどやらねえ」と誓ったゲレンデであった。滑ってる途中で結構、景色も思い出して来たし。

ただ、その時に、「スノボーの方が簡単そうだ」と思ったのが、数年前に突然ボードに挑戦してみたきっかけの一つだから、これは、そう、ある意味ではリベンジになったのかな。今回は、まあ、普通に滑ってこれたからな。あの時には「俺このまま遭難するんじゃないか」と思ったほど長かったコースも、今となっては短いくらいで。

ま、良かった良かった。

2012年2月21日火曜日

鉄フライパンを導入。これはいいフライパンだ。

ちょっと前に、久々に食いたいと思ってオムレツを作った。ところが、我が家の唯一のフライパン、28cmのT-falで卵2、3個では、どうも大き過ぎてうまく行かない。

それでもう少し小さめのフライパンを買おうと思い立ったのだが、せっかくだから鉄のフライパンを試してみることにした。幼い頃に初めて目玉焼きにチャレンジする時に使った、やたらに重いフライパンを、使いこなしてみたいというようなノスタルジーだ。

「焦げ付かない」フライパンが一般化した今、鉄フライパンは上級者向けのような位置づけになっているが、どうせ主力じゃなくて、休日に俺が遊びで作るような料理のためならと。

で、買ったのがこれ。








SAというのは「シルバーアロー」の略だ。だが、そのシルバーアローという言葉にどんな意味が込められているのかは知らない。ともかくプロ仕様(と、どこかに書いてあった気がするし、メーカーの遠藤商事は業務用メーカーだ)であり、2.3mm厚の底である鉄フライパンだ。

鉄フライパンは、焦げ付かない加工が無いので焦げ付かないように注意して使う必要がある(当たり前だ)が、その代わりに熱に関する優れた特性を有している。

購入前にWikipediaで調べたところによると、アルミの融点が摂氏660度に対して鉄は1500度以上、熱伝導率はアルミの約1/3で熱容量はほぼ同じだ。

いや…これが何を意味するか、正確なところは正直知らん。が、想像するに、まず金属のフライ返しと合わせて強火力を容赦なく使えるということ、そして熱伝導性が小さいということは、温度が安定するということだ。いや、そう、熱伝導は悪いのだよ。鉄フライパンうんちくで熱伝導が良いと書いているのを結構見かけるが、鉄という素材はアルミに比べれば熱伝導性は悪い。だから、鉄フライパンは取っ手が鉄のままでも結構素手で大丈夫だったりする。

そして、熱が伝導しないということは無駄に拡散していかないということで、したがって、十分に熱した場合には食材を投下してもフライパンの温度が下がらないということになるだろう。

ま、結局よくはわからないのだが、熱に関する特性が鉄とアルミで大きく違うのは確かだ。





ともかくだ。黒光りするボディ、底面には誇らしげに「MADE IN JAPAN」の文字とSGマークが刻印されている。

同封の説明書にもあったが、昔の錆び止め塗装と異なり、無害なシリコンコーティングを用いているために、いわゆる「空焼き」は不要だそうだ。実際、そんなことはせずに使ったが、特に不快な臭いなども無い。シリコンなんて…と気分を害する人もいるようだが、Feは良くてSiはダメだと言う事も無かろう、と俺は思う。

さて、能書きはこのくらいで。

実際に使ってみてどうだったのかと言うと…これが素晴らしい。

最初に作ったオムレツは単に失敗(鍋の種類と関係ないタイプの失敗)して炒り卵になってしまったが、次のオムレツはうまかった。YouTubeで学んだ通り、激しく鍋を揺すったのが良かったのではないかと思っている。ふわっととろっと、と言う感じで、「ああ、オムレツってこんな食い物だったよな」と。

続いて、餃子を焼くとこれがまた良い。オクタン餃子とかって冷凍品でなかなか美味いのだが、これは前回はアルミで焼いていたから、味は知っていた。それが…実際、味そのものは変わるはずはないのだが、鉄ので焼いたら皮が。底面がパリっとして、これまた「ああ、焼き餃子ってこうだよな」という感じだ。時間とか水入れる量とか、いつも計ってるから同じなんだけどね。

そして続いて、ホットケーキ。

これがまたうまい。おやつ用に、予め砂糖とバターを加えて(備忘録:粉300gに大さじ1ずつ足した)焼いたが、表面はサクっとして、中身はふんわりと。

つまるところ、どれも、同じなのだ。表面がしっかり焼けて、中は火は通っているのだが焼け過ぎというか加熱され過ぎていない。おそらく、熱伝導の問題に加えて、輻射熱の問題もあるのではないかという気がする。ともかく、理屈はどうあれ、この特性はおよそ焼き物を美味くする。とうぜん、よく言われるように野菜炒めもシャキシャキになるのであろう。これは楽しみだ。



ちなみに、今のところ、焦げ付き問題には遭遇していない。ただ、調理した後にすぐ(料理を食べるより前に)お湯で洗ってしまうようにはしている。餃子の時など、澱粉が多少焦げ付くが、お湯をかけつつ金属のフライ返しでガリってやればだいたい落ちる。ま、小さい鍋だし、むしろ片付けが楽なくらいだ。今度ササラでも買って来よう。

いやあ、最近、料理が愉しいわ。料理というほど立派なもんは作ってないが。

2012年2月11日土曜日

What should I do this weekend?

タイトルに困った場合は英訳に挑戦してみるのである。

そんなことよりどうするかだ。

ロッドも買ったことだし釣りに行きたい。ずっと行ってないし。ヤマメ釣りたい。…が、これはもうすぐ渓流が解禁だからそれまでは待てばいいか。

スノボーとか行きたい。狭山スキー場で構わない(つうか十分)し、一人で問題無しなので、久々に板を使いたい。…が、これも今度同僚と行く事になりそうだからいいか。

先日、昨年秋の引っ越し以来ずっと半端になっていた片付けの続きにようやく着手すべく、IKEAで買ってきた収納系雑貨などいくつかあるので、片付けをするか。日曜には書棚も来るから作らねばならんし。

うん、それが手堅い。


が、どうも出勤するべきでないか?という気もしている。今日も自分の作業はろくに出来なかったし、月曜も午後からずっと会議の予定だ。俺が握ってしまっている横断的な処理の改善が遅々として進まないせいで、チームのパフォーマンスに悪影響が出ている。とは言え、今日は少しは進展もあった。この休みに出れば、静かなオフィスで集中して作業して進捗の回復に向けて弾みが付くだろう。

…つったってなあ。疲れ気味なのに休出とかしたくねえし。

やはり家でザッキーと遊んでよう。

…先日、ザッキーの制服や通園バッグが届いた。赤い小さなショルダーバッグが何とも可愛い。…通園バッグか、ふ、俺がついぞ使ったことのない物だな。なんて感傷は吹き飛ぶくらい、ザッキーの通園スタイルは決まっている(と想像している)。

が、そうしてこの春に幼稚園に入れば、あとは小学校、中学校…。…ああ、いやだ。一緒に風呂に入るのもあと何年行けることか。

それにしても、一人娘の身を心底ステレオタイプ的に案じる自分、自分という人間がこんなにも平凡だとは思わなかった。…いや、思わなくも無いか。自分の事を知るのは言うほど簡単じゃないが、俺は自分で言うのもなんだがそこそこよくわかっているつもりだからな。

2012年2月5日日曜日

ネスカフェ バリスタで勝手なコーヒーを飲む

ウチは結構コーヒー好きで、休日などは一日に5杯くらい飲む。…のだが、インスタント派であり、豆など買わない。挽いてない豆などもっての他だ。

まあ、正直、以前はレギュラーコーヒーも買って、普通にドリップして飲んだこともあったのだが、だいたい面倒で飲まなくなって途中で捨てるので、買わなくなった。

で、昨年秋に引っ越してキッチンも広くなったところで、コーヒーメーカーを導入…というありがちな選択の代わりに我が家に導入されたのが、このネスカフェ バリスタである。

こいつは、インスタントコーヒーの粉を予めタンクにセットしておくことで、ボタン一つでコーヒーが飲める優れものだ。粉は当然、ネスカフェゴールドブレンドなのであって、そのままでも違いのわかる味わいなのだが、このマシンは、ただ粉に熱湯を注ぐというアイテムではないので、普通にお湯を注ぐよりも美味く出来る。Amazonのレビューなどでも高評価だが、同じくそのレビューでも指摘される唯一の弱点は、若干温度がぬるい(確かに熱湯並みの熱さではない)事であるが、そもそもコーヒーってそんな熱湯みたいな温度で飲むものだったか?と思うし、だいたいがして俺は猫舌なのでむしろややぬるは有り難い。

ということで、とても重宝しているのだが、もう一つ、弱点とは言わずとも…というところが、その粉カートリッジにある。これが、ネスカフェのエコパック専用で、つまりゴールドブレンドとせいぜい香味焙煎しか飲めない。

で、これをクリアして他社製も含め様々な味を楽しむために、カートリッジの反対から少しずつ粉を入れる…などの手法が提唱されている(ネット上で)のだが、俺はこれを、実にクールに解決している。

その方法がこれだ。



専用の粉は紙容器(差し込み側にはプラスチックの接合口がある)なので、空になったものの底を切って、1つ保管してある。

他社製や、特売で入手した通常の瓶タイプのものを使いたい場合は、この底抜けのカートリッジを差して、そこに瓶の中身をどばっと入れれば、当然のように何の問題もなく粉はタンクに格納される。


実にクールなソリューションだと自画自賛している。



いや、このアイテムはしかし素晴らしい。上位機種?の液体カートリッジの奴なんかダメよ。半端過ぎる。この単純さが素晴らしい。味は、はっきり言ってレギュラーには劣る。だが、味と手間のバランスで優れているっつうね。お湯沸かす必要すらないんだもの。瓶の蓋空ける必要も。この価値観、わかるかなあ。わからない人にはわからないだろうなあ。…日清が開発する以前からカップ麺を電子レンジで作る方法や、カップ焼きそばでお湯を捨てない方法を独自に考えてるような人達ならわかるだろうと思うけど。




2012年1月24日火曜日

男の弱さ、脆さ

今日はびっくりした。

雪の予報は知っていたが、降水量の予想が1mmだったので、大したことにはならんだろうとタカを括っていたらまさかの積雪。

都内のオフィスを出た頃は「雪が混じって来たかな?」くらいだったのだが、さいたまは…つうか武蔵野線は止まってました。まあ、ポイント故障とかいう話だから、そんなこともあると諦めるところか。武蔵野線と言えば風が吹いても止まるってな感じで悪天候に弱かったのだが、最近は各種の工事により改善してきてたのだけどね。

それでも、(振替乗車の券を貰い損ねたのが悔やまれるが)バスを利用して帰って来られたのでまあ、良い。良かった。雪で滑った車に轢かれることも、無理に妻に車を出動させて事故ることも無かったのだから、良かったのだ。家に着いて、そう思った。

さて、しかしこのバスというのは酷かった。何せすごい混雑だ。予想は出来たのでタクシーも検討したが、何せ料金がねえ。ステーキ1回食えるくらいはかかるし、そもそもタクシー待ちの行列も凄い長さになっていた。

で、大人しくバスに乗ったのだが、何せあり得ないほどの混雑。と言っても、きっと朝の通勤通学ラッシュ時の2割増程度で、荒天時のデフォルト程度なのだとは思う。少なくとも、かつての山手線の伝説のように、圧力で本当に肋骨を折って人死が出るほどのものではない。足も地に着いていたしね。耐えられるレベルだった。

耐えられるレベル、とは言っても、俺は本来はあまり混雑に耐性がない。会社への出勤が遅いのも混雑した電車が嫌いだからだ。言い訳と言われようと我がままと言われようと、他人と身体を密着させるような混雑は嫌いだ。耐えられない。臭いも酷いし二酸化炭素分圧が高過ぎるし。

でも、それは日常としては耐えられない、という意味であって、今日のような特殊な場合に短い時間であれば耐えられる。嫌ではあるが、大人しくしていられる。

ところが、それが出来ない者がいる。

雪の中、長い列で待っている時、バス会社の社員が臨時に駆けつけて「…XX系統のバスですが、国道YY線でスリップ事故に巻き込まれまして、大幅な遅れが見込まれます!」などと大声でアナウンスするのを聞き、一人大袈裟に溜め息を付く。何やらブツブツ独り言を言う。

満員の車内では、やれ傘だかカバンが足に当たるだの、混み過ぎだの、降り難いだの、何かにつけてブツブツと文句を足れる。降りる人がぶつかる(満員なのだから当然だ)とイチイチ後ろから睨む。そして、こういう場合に常に目撃するのだが、一度立った場所から動かない。掴んだ吊り輪を離さない。愛する人が崖から落ちるのを必死で繋ぎ止めているその腕であるかのように、身体が押されて離れても、その手だけは放さない。あるいは、床から足を、1センチだって動かさない。

これらは、はっきり言ってまったく理に適っていない。けして快適な環境でないのはその通りだが、それに対する反応として、まったく合理的でないのだ。にも関わらず、そういった攻撃的あるいは防衛的な振る舞いをせずにいられない。

それはつまり、ストレスに対する適応機制なのだと思う。つまり、その非日常的に不快な状況に対して、平常心を保てなくなった者のギブアップ宣言なのだ。もうダメです。苦しい、疲れた、こんな状況には耐えられない、叫び出したいです。と。

たかだか、電車かバスが遅れたとか混んだとか、その程度でね。大の大人が。



いささか恥ずかしいことだと思うのだが、そういった行動をとっているのが、大抵は…というか、俺の経験した範囲だけであればおそらく99%くらいは、男なのだ。

今日も、爺さんが2、おっさんが1、若い男が1。そんな感じ。


それで、結局のところは、男というかオスというのはストレスに対する耐性が弱いのかなと、こんな時にいつも思うのであった。


とは言え、深夜に近い帰宅時間という都合上、そもそも男ばかりだという確率の問題なのかも知れない。んー、でもどうかね。今日のバスにもお姉さんもおばさんもそこそこ混じっていたけどね。やはり、おっさんの不満の方が…本人は苛々を声に出して、ある意味ワイルドに思っているのかも知れない(実際、「俺はこういう時に黙ってらんねえからよ!なんで皆黙ってんだ、だから日本人はダメなんだ」とか宣っているおっさんもかつていた)が、その内容と声音は、俺にはストレスに押しつぶされる寸前の悲鳴にしか聞こえない。

だから、科学的な判断ではないが、やはり環境ストレスへの耐性という点では男は弱い、というか脆いなと思う。


もっとも、かと言って、俺が女性を見る時にいつも「女は強い」などとくだらないバイアスで判断しているということはない。それは、「アメリカ人?なら彼は金髪で碧眼なのだな」という判断と同じ程度の精度しかない発想だということも、よくわかっているつもりだ。

2012年1月22日日曜日

とりあえず、走ってる

いろいろやりたくて、出来ないでいる。理由はいろいろあって、だが瑣末なもので、本当に理由なのだか本当は言い訳なのだか、わからない。

で、体力系については、ともかくせめて休日に走るくらいはと。

夕方なので、東廻りにコースをとったら、後半は富士山が綺麗でよかった。

豚まんは電子レンジじゃダメだ

昼に豚まんを食った。

チルドの。どっちかと言うと俺はこの食い物を「肉まん」と呼ぶのだが、こいつはパッケージにそう書いてあったから豚まんである。

いずれにせよ中華まんは昔から好物だ。だが、最近は家で食うとどうもしっくり来ない。中村屋や井村屋であってもだ。

これらブランドはコンビニの中華まんも供給しているので、基本的にモノが悪いわけじゃない。少なくとも、俺の期待値までのクオリティは有しているはずだ。

となれば、しっくり来ない原因はやはり、調理方法。つまりレンジで温めるというやり方にあるのではないか。最近では、パッケージにも「電子レンジの場合」という温め方が記載されており、中華まんの公式調理方法となった観のあるレンジ法だが、かつては、レンジで調理して失敗するアイテムの代名詞といえば中華まんという時代もあった(と思っている)。

つまり、中華まんを普通に電子レンジで温めれば、確実に固くなる。中華まんは蒸すもの、つまり熱と同時に水分を加えながら調理するものであるのに、電子レンジは水分を奪ってしまうからだ。本体を炙らずに水を温め、その高温の水分を本体に含ませることで本体を温める「蒸す」という方法と、本体に含まれる水分を温め、気化に脱水を招く電子レンジ。考えてみればまったく逆のアプローチである。

と言う事で、昨今ではご存知の通り、この手の調理においては水をふりかけラップして…という手法が編み出され、定着するに至ったのだが、果たしてそれで問題は解決しているのか。

電子レンジはやはり、蒸すと同等の機能は持っていない、それが、俺が家で中華まんを食う際の残念な感覚につながっているのではないか。

ということで、蒸すことにした。

が、蒸し器がない。

そこで編み出したのが以下の方法だ。



パスタ鍋の内鍋に凧糸を二本、橋渡し(つまり穴に通して輪にした状態)し、そこに割り箸を2膳、枕木状に配置した。やや綱渡り的な不安定さがあったが、慎重に扱えば十分役に立つ。あとは通常通りに外鍋に入れ、低く水を張って沸かし、蒸すのみだ。ちなみに蓋に布巾を挟んだりはしなかった。最近の鍋は密閉性が高いというか、蓋の合いが良いから大丈夫じゃねえかなと。

これで、3つの豚まんを蒸した。

豚まんは4つ入りだったので、1つは、レンジで調理した。茹でもの専用のザル状のインナーが付いたタッパーでなので、電子レンジ的にはだいぶ頑張った調理だ。蒸すのは湯が沸いてから5分からかかるが、電子レンジは1分で出来るのは確かに美点だ。

だが、出来上がったものは、やはり違っていた。

まず、皿に載せようと掴んだ時点で明確に手応えが違っている。レンジのは普通にやわらかくなっていたが、蒸したものはもっとこう、指に吸い付くような柔らかさだ。

そして、実際に食べれば、蒸したものが明らかにもちもちのふにゃふにゃ(まあ、コンビニで買うのと同じだ)なのに対して、レンジ調理品はやはり、どこか芯が感じられる。パンを食っているような、というか。

さらに驚いたのは、味が違っていたことだ。蒸した方が生地が甘かった。おそらく、食感の違いのせいではあるまい。澱粉と水と加熱の何かの作用が甘みを引き出しているのではないかと思う。糖がどうとか、そんな話で。面倒なので調べないけど。

なので、これからは断固、蒸すチルド食品は蒸すと決めた。

しかし、だからといって蒸し器を買うのは邪魔だし嫌だ。鍋に入れて使う変な羽みたいな簡易蒸し器?も見たことがあるが、あんなのも邪魔だ。そこで、凧糸方式の改良を試みた。

それがこれ。



…我ながら、器用なものだと思っている。2本の綱渡りだった凧糸の二カ所を結び、それを別の糸で外側から引いて蜘蛛の巣状にした。凧糸がもったいなかったから別の糸でやったけど、最初からこうするつもりなら1本でも出来るな。台所スポンジを載せてテストしたが、肉まんくらいなら、十分に安定して乗りそうだ。

…まるで亀の甲羅のような幾何学的パターンだ、という点から余計なことを着想しそうになるが、それはしなくていい。ただ、こういうことをさらっと思いついて実現できる自分のクリエイティブさに感心してしまった。




追伸

夕食にはチルドシュウマイを食った。この時点で、鍋の中にお菓子作りようの「ふるい」を伏せてやれば見事に蒸し器になるということを発見し、上記のアイデアはお蔵入りになった。

ま、シュウマイも、レンジ調理より格段にうまかったわ。皮のもちもち感が違う。蒸すのが、すっかり気に入ってしまった。今度はあんまん食べよう。

2012年1月21日土曜日

本を読むことは役に立つ

が、本に書いてある字を読む事自体はさほど役には立たない。

…昔から云われていることだが、本当にその通りだと思う。子供なら、まだ良い。それでも読んだ本が教科書ならば成績はそれなりに上がるだろうし、物語を読んで本来そこから得られるはずの感動の半分も得られなかったとしても、何かの暇つぶしにはなる。いくらか語彙も増えるだろう。

だが、大人だとタチが悪い。特に、ビジネスハウツーに近いものだと最悪だ。よくベストセラーだと電車で広告されているような、極めて浅薄なものであれば、その内容の無さに気付かないで何かわかった気になるという問題があるし、先見と洞察に満ちた良書であれば、その内容の深さに気付けないでいながら何かわかったような気になるという問題があるし、どちらにしてもそういった勘違いは周囲からすればいい迷惑だ。

大人が本を読むということは、字を読むことではない。考えることだ。著者の問いに答え、答えに問いかけ、対話することで何かを得るのだ。書いてあること自体が重要なのではなくて、それに対して自分が考える事が重要なのだ。俺はそう思う。

書いてあることをそのまま読んでそれで済むのは、せいぜいが18歳までだ。それを超えてそんな読み方しか出来ないなら、いっそ字なんか読むのは止めた方がいい。時間とカロリーの無駄だから。


…なんでかな。急にそんなことを思いつきました。寝よう。