2016年7月21日木曜日
フェミニズム、女性視点を語る女性というのは、
http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/pink
偶然、こんな記事を見た。
この記事がとりわけどうというより、ここで引用されている記事の対談に出てくるフェミニストな女性視点の女性もそうだし、それ以外で過去にどこかの記事やテレビの討論番組で見たのもそうだし、そういった女性というのが、えらく自己卑下しているようにいつも感じるんだよな、というのを思い出したという話だ。
それもちょっと歪んだ形で、女性としての自分を卑下して、その自分を一般化された女性そのものと同一視して、つまり自分こそはもっとも典型的な女性の一人であると前提して、その上で、自分が否定されているのだから女性が否定されているという三段論法により、女性に対する否定的なものの見方というのを語っているように見える。
飛躍もあるがそれ以上に歪んでるなと思うのは、誰よりも女性を否定しているのが他ならぬ自分自身であり、そしてそれは本人の多分に(悪い意味で)男性的な思考に起因していると見えることだ。
ものの考え方に女性的、男性的な考え方というのはジェンダーによらずともあろうし、ジェンダーによってもあろう。また、それが実際の肉体的な性とズレてしまうことも稀にあろう。ただ、どうあれ差があって類型があるのは間違いないことだろう。肉体にこれだけの差異を抱えて、脳にだけは何も差がないというのはむしろ無理があるから、専門的なことは考えなくてもそう結論するのが合理的だと俺は思う。
で、先に言ったようなザ・女性の方々の語り口というのが、知ってか知らずか非常に男性的だと思うのだ。語尾とかではない。マッチョなところがだ。そして、男性のステレオタイプな下劣さをなぜかいつも振りまいている・・・要は、本当の男性の考え方というよりは、女に対して露悪的に振る舞う男であるとか、一部の女が一部の男を見て勝手に作り上げたジェンダー的な卑しい男の感性というか、そういうものを醸し出している。
つまるところ、Anytime Anywhereであらゆる意味での暴力により女をあらゆる意味で犯すことしか頭にない男というのが基本的な彼女らの男性観であり、それを勝手に理解して悟って、そして結局怒って、結果として自身がその”男”のようになっている。あるいは、逆なのかも知れない。自身にあるそういう汚い感性を「男性的なものであって、自分は男性社会と戦うためにその男性的汚ささえも呑み込める、なぜならそれが男性特有であるというのは思い込みなのだから、女性の自分にだって持ち得る汚さであり、強さなのだ」ということかも知れない。そう言葉で主張しているのを見たことがある気はしないが、総じての印象としてそう感じる。
いずれにしても、そのイメージは実は「男性」ではなくて「オス」のそれに過ぎない。男性とオスは違う。同じというなら女性もメスで良いことになり、話はそれで終わり(本当に。なぜなら動物は話などしない。)なのだが、やはり男とオスは違う。人間は動物であるけども、それは人間が他の動物とまったく同じという意味ではない。男はオスではあるが、オスが男なわけではない。
しかも、オスのそのイメージさえ、ただのステレオタイプに過ぎない。
女性のために女性を語るその口は、結局のところ思い込みと混同と転嫁と、元をただせば逃避と、そういったものを綯交ぜにした男のものでも女のものでもない、なにか不思議な化け物のそれではないか。
とは言え、なんとも言えない自縄自縛というか自作自演というか独り相撲というか・・・そう言ってしまうと狭量だと非難されるから放置されるのか、社会に「ちょうどいい」人ばかりがいるわけでもないから、実際に確かに存在はする男性社会に対するカウンターウェイトとして取りあえず置いてあるのか。それが社会だというならそうなのか、と思うしかないが、何とも無様なものだなとは思わずにいられない。
もっとも結局のところ、器の小さい人間は男女を問わずにいると思うが、それが偶然にも女性であった場合、非常に具合のいい玩具になるのが「フェミニズム」、「女性視点」、「ジェンダー」そういったものになるということなのだろう。たぶん男の場合は愛国かなんちゃってオネェとかになるパターンの対照として。
もっとも、そういった問題は議論するべきものではあるし、まっとうに議論している人も多いのだろうが・・・そういう人からすれば、ああいうのは獅子身中の虫という奴なのではないかなという気がする。
まあ、若いころはそういうのもえらく腹が立ったものだが、年をとったからか、別にどこかで誰かが勝手に目を三角にしていることはもうどうでもいい。
ただひとつ気に入らないのは、くだらない話のネタにプリキュアを引っ張って来て、「ロリを犯す」とか「レイプする」とか、そういう言い方を堂々と散りばめると「わかってる」感があるでしょう?というバカなインテリ中学生みたいな自己満足が気持ち悪いということだけだ。
2016年7月14日木曜日
ジブリ映画の意味不明さ
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150226
引用の引用になってしまっててアレで、語り口がずいぶん偉そうだなとか思ったりはしてなんだか読んでると不愉快だけど、言わんとすることはわかる気がする。
ただ、いうほど多くの人が誤解?をしながらジブリ映画を見ているのだろうか?
実は明確なテーマなどないことは創作ではわりと当たり前のことなのじゃないだろうか。戦争反対だけど兵器はかっこいいという感覚はむしろ普遍的なのではないだろうか。
ナウシカを観て戦争反対、森は大切、というメッセージが重要だと思う人がどれほどいるのだろう。あれはただ単にヒロインが強くてかっこよくてかわいくて、メカもかっこよくて、人間の戦闘も大型兵器や巨大生物の戦闘もひたすらかっこいいということが重要な作品じゃないのだろうか。見た結果、「ああ、火の七日間をもたらした人間の罪は深い、腐海の生態系を理解できない人間も愚かだ、虫をも愛でる博愛でエコロジーを理解することこそが重要だ」というような感想を持つことも自由だが、それはある意味ロールシャッハテストみたいなもので、受け手の問題だろうと思う。それがふつうの捉え方ではないだろうか。
まあ、友人知人の少ない俺の考える「ふつう」よりは多くのところで人の話を集約してるソーシャルな人の意見の方がきっと的を射ているのだろうが・・・。
俺の親は、映画や本にはテーマというものがあって、それを感じ取ることが重要だと子供の頃に教えてくれた。お陰で映画を見たりすることがちょっと億劫になった。
その後、俺はなんだかんだで、一部のメッセージ性の強いものを除いて、たいがいの映画や小説にテーマなど実はないと思って観たり読んだりしている。作者は、思いついた描きたいものを描いているだけのことがほとんどなんじゃないだろうか。
ただ、商業でやりながら、テーマを問われたりするので、思いつきで何かを含ませたりすることはあるんだろうけど、根本的には思いついたものを具体化しているだけじゃないかと。
戦争と兵器についても、子どもの頃にガンダムを観ていると「戦争の話で面白がっているのは日本の子どもだけだ」と親に説教されたものだが、しかし面白いものは面白いと思ったし、それだからといって実際に戦争が起こればいいと思っているわけじゃないのに何が問題なんだ?と思ったりしたものだ。戦争放棄を掲げる政党に肩入れしていた叔父がしかし趣味では戦闘機のプラモを作っていて、親父(叔父の弟にあたる)は、「わからない」と評していたが・・・なるほど、そうか。わからないものなのか。
道具に罪があるのではなく、道具を使って罪を犯す人がいるだけだ、とか、いやしかし兵器はその出自から罪を背負っているとか、そういう理屈以前に、F22とか格好いいでしょう。海でたまたま自衛隊の艦船を見た時にも、戦艦ではなくても、民間の船とは明らかに違うその質感に痺れるものでしょう。その後で、「これが使われたら人が死ぬのだ」と思ったとしても、だからといって「格好いい」と思った気持ちまで否定しなきゃいけないことはないだろう。
きっと問題は、立派な業績を残した偉人は常に一貫した崇高な信念に基づいて行動していたのであり、そこから勘案して人間が常にテーマと目的をしっかり持って生きていないと立派でいられないと考える、そんな思い込みにあるのではないかと思った。
とすると、しばらく前からビジネス界にも蔓延る、目標管理とかキャリアパスとか、そういう考え方もそういう延長にあるわけで、くだらない思い込みだと思ってしまう。今はそういう組織から自由の身だが、上長として部下に目標設定をさせなければならなかった頃には、苦労したものだった。・・・・自分に目標がないのに他人にそれを決めさせるという役割に。
ちなみに自分はプログラマだ。立派な目標は書けてもまともに動くプログラムは書けない社員もたくさん見たが、自分にはまともな目標は書けなくても十分に動作するプログラムは書けたと思っている。目標は、あって悪いこともないが、なきゃいけないものでもない。(『納期』とかの目標は別として。)
・・・と、ここまで来て、そんな考え方が「蔓延っている」と感じていたということは、なるほどやはりジブリ映画は誤解をされていることが多いのかも知れない。他の映画も。
ところで、この投稿のきっかけとなった冒頭の記事にいきついたそのきっかけは、「変態仮面」の実写映画を観たからであった。ろくに期待せずに観たのだが、面白かった。
実は言いたかったのはそれだけだ。
2016年4月21日木曜日
バイクを買おうかと思っている
10年は行かないか・・・しかし5年以上、まともなバイクには乗っていない。
16歳で免許をとってからの趣味だったバイク。ツーリングが好きでいろいろ乗り継いで、社会人になってから少しだけサーキット走行もしてみたりして、大型免許とってスーパースポーツに乗って。
ただ、自分はよくバイクを転かしてしまうので、肉体以上に財布にかかるダメージがメンタル的にきつくなってきて、手放してスーパーカブ125など買ってみて。結局、事故に遭うわ盗まれるわで、それならと手に入れたのが今も乗ってる125のスクーター。
メットインが便利だとか、通勤にも使うつもりだったとかそういう理由はつけられるが、たぶん、気分を変えたかったのかも知れない。けど、やはりスクーターは俺には合ってなかったようで、二度ほど少し遠くに走ってみたが全然面白くなく、通勤にも使わなくなったので、スーパーに買い物行く専用マシンでしかなくなっていた。
それもボロくなってきてるし、「もうバイクも乗らなかな」と思って毎年自賠責も1年更新してたのが・・・。
なぜだろう、しばらく前から非常にバイクに乗りたくなってきた。
今は主に自宅で仕事をしているので、毎朝の通勤もなく、そういう意味では生活は快適だ。料理の機会が増えて、すっかり自分で作った飯で飲むのが楽しみになってしまった(主に肉と油を活かした系統の)。
余裕こいて自宅で野菜やハーブも育てており、それを薬味にしてツマミを作るのも愉快だ。
まるで定年で隠居したおっさんのようだが、それは普通はその歳にならなきゃ出来ないというだけで、(一時的かも知れないが)40歳でその時間を獲得できている今の俺はラッキーであり、普通に楽しい。ランニングに勤しんだり、たまには登山もしたり。
だが、何か。何かが足りないという気がする。刺激が何もないわけじゃない。家で作業しているだけで、仕事は十分に厳しいし、チャレンジングなことをしているつもりだ。
けど、それでも。
自宅の作業机の前には窓があり、武甲山を右手に、秩父から奥多摩へと連なる山並みが見える。うちの近所は夕方にランニングをすれば、俺が勝手に「釧路」と呼んでいる大きな調整池の向こうに赤く染まる富士山もよく見える。
登山や釣りのために電車やクルマでそのあたりに行くことは最近でもたまにはある。けど、それはそれでいいけど、そうじゃない何かがしたいと思う。
バイクというのはやはり、移動手段ではないのだと思う。乗ることそれ自体が目的なのであって、それは他の移動手段で同じ目的地に行くことでは代替できない。
で、その「バイクに乗ることそれ自体」というのが、 やはり自分は好きなんじゃないかなと。まあ、いろいろな乗り方がある。けど、いま欲しているのは、陳腐な表現だが気ままな散歩のような乗り方だ。結局、俺は「一人でウロウロ」と言うのが大好きな性分なんだと思う。
残念なことに今は使える予算も少ないのだが、幸いなことに一時期の寒い時代が嘘のように、今のバイク業界は軽量級が活気づいている。何か手頃で楽しいマシンでも手に入れようと思う今日この頃だ。
・・・・けっして「ばくおん!」の影響ではなく!いや、ほんとに!
2015年9月16日水曜日
子育てが泣けるほど楽しい
学校も楽しいようで、毎日元気に登校している。先日授業参観にも行ったが、確かに楽しそうだった。
親の俺が言うのも何だが、娘はちょっと変わってると思う。世界に一つだけの花理論みたいなきれいごとではなくて、ちょっと変わってる。いつも空想話をして、空気が読めず、いきなり踊りだしたり、ちんぷんかんぷんな発言ばかりしている。動きもフニャフニャバタバタしてどこかおかしい。昔風に言えばトットちゃん、今風に言えば軽度の発達障害の気がある。
客観的に見るとふざけてるように見えたり、ひどくだらしなく見えたり、あるいはものすごく身勝手に見えることが多い。実際、行動はその通りだから、そうだと言われても否定は難しい。
だけど本人は、むしろいつでも至って真面目で、いろいろ考えて「きちんとしよう」と思っていて、そう考えれば考えるほど、子どもならではの知識の不完全さも手伝ってちぐはぐでおかしな行動をとってしまう。
親として見れば、ちょっと心配になるところもあるにはあるが、まあ微笑ましいものだ。なにせ本人はいつも至って大真面目なのだし。多少の空回りは健気にも見えてむしろ愛おしい。
学校でも、先生はおそらくよく配慮してくれてるのだと思う。よく出来たことは誉めてくれる一方で、きちんと出来ないことについて、注意はしても必要以上に責めたり罰を与えたりはしていない。ありがたくて、頭が下がる。
友達もちゃんといるようで。
・・・そうやって、不器用ながらアレコレ一生懸命な(傍から見たらサボってだらけてるように見えることもしばしばだろうが、本人としてはだいぶ頑張ってると思う)娘と、それをサポートしてくれてる先生、違和感なく接してくれている級友を見て、安心したり嬉しく思ったりする時に、一方でふと寂しく思うことがある。
いや。正直に言って、泣きたくなるほど悲しい気持ちがこみ上げることがある。
何で、俺の時にはそうじゃなかったんだと。
何で、俺が期待に胸を膨らませて小学校に入った時には、先生は俺を教室から追い出したのかと(俺の机は一時期廊下にあった)。
毎日男子とケンカして負けて、女子にはばい菌みたいに疎まれて、なのに先生すら味方にはなってくれなかった。俺は余りにも視野が狭く、自分が疎まれていることにすら気付けなかったから、先生のことは好きで、クラスの皆は友達だと思っていて、だけどあちらはそう思ってくれてはいなかった。気付けてなかったから悲しくはなかったが、いつも違和感があったし、やはり、どこか苦しいものはあった。
唯一、隣の隣のクラスのおばさん先生(いや、お姉さんだったのかも知れない)は、廊下で会うといつも声をかけてくれたり時には頭を撫でてくれて、幼心に「何なんだ」と思っていたけど・・・後から考えてみれば、俺の待遇を憐れんでくれていたのだろう。
その後、教師には「影がある」と言われ、女子には「根暗」と言われるようになった自分の性格を、その原体験に責任転嫁する気はない。たぶん、自分には元からそういう二面性がある。多弁で楽観的な部分と、寡黙で悲観的な部分と。
だから、幼いころの俺を義務教育の場で率先してクラスから弾き出すようなことをした若い先生を、今でも恨んではいない。それが、仮に俺の上履きがボットン便所に落ちていたり算数セットが消失したり、給食に雑巾が投げ込まれたりという日常を助長していたのだとしても、恨んだりはしていない。俺はどちらにしろ、自分で活路をひらいて、それなりに十分な稼ぎも得て、こうして愛すべき娘もいるのだから、かつての自分の境遇やそれに関わる人々に、感謝はしてもよいが恨みをもつことはないし、実際そんな気持ちはないのだ。
だけどふと、エキセントリックな娘にかつての自分を重ねる時に、寂しい気持ちになることがある。
妬ましいわけではない。ただ、戻ることのないかつての時間、疎まれながら過ごしていた幼い自分が少し不憫に思えるだけだ。良かれと思ったこと、頑張ったこと、出来たと思ったことが軒並み裏目に出て罰や嘲笑の的になっている少年の姿が哀しくて切なくて、少し泣きたいような気持ちになることがあるだけだ。
・・・まあ、そんなこんなを乗り越えたおっさんだから泣きやしないけど。
教育の現場にも未だいろいろ問題はある、政治にも社会にも、闇も病もある。だけど、それでも世の中は少しずつ良くなっているんだ、と思う・・・少なくとも娘が受け入れて貰えるような背景というのは、ここ10年ほどで大分進歩したのだろうし。
そう思えば、やはりそれは嬉しいことでもある。それが実感できるのは、楽しいことだ。
2012年10月21日日曜日
屋上バーベキュー
そうそう、ホットプレートを使えるというのはつまり、屋上にコンセントが引いてあるのだ。さすが俺。用意周到。うちの近所は高い建物は少ないので、座ってしまえば見えるのは青い空ばかりだ。秋空とは言え、直射日光は暑いのでパラソルを立ててその下で。
テーブルとかあればもっと楽かな、とも思うが、台風で飛んでったりしたら嫌だしな。
リブ上の部分はすり鉢状で、中央の穴から下の脂受けに脂を流すので、べったりしない。なかなか良い。
そして、牛肉は好きじゃない妻子にはあげない、パパ専用肉である。250グラムくらいの安い牛モモステーキ。バーベキューで薄切り肉とか焼き肉のタレというチョイスは、俺にとってはあり得ない。
たこ焼きプレートはいらないと思ったので。無駄に豪華じゃない方が、収納も楽で使いやすい。箱に入れてしまい込んだりすると、使わなくなるから、そのままでシンク下の引き出しにしまってる。
2012年10月14日日曜日
電気バーベキュー
2012年6月13日水曜日
6月のシカゴ、青い空と湖水、赤い月、そしてピザ
ちなみにシカゴは、スカイスクレイパー…おっと、高層建築の発祥の地だらしい。Congress Plaza Hotelという古臭い(1890年代建築だそうだ)ホテルに泊まっていたのだが、このホテルが実にロケーションが良く(そして素晴らしいのはロケーションだけとも言われる)、歩いて数分のところにシカゴ建築財団(Chicago Architecture Foundation)があり、空き時間に徒歩でのビル見学ツアーに参加した。アーキテクチャという概念は、建築界から輸入されてソフトウェア業界でも重要な概念であるから、これは見ておかないといけませんなと。
低層建築から高層建築への移り変わりと、同時にギリシャ/ローマ様式のネオクラシカルからモダンへ、その後ポストモダンへと移行する歴史を見た。…まあ、建築のことはよくわからんけどな。
ということで、いくつかハイライトを。
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| シカゴピザ |
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| ホットドッグ |
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| シカゴ・ビーン |
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| 天文台裏のハーバー |
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| クロカン仕様のセグウェイX2 |
2012年6月1日金曜日
2012年5月31日木曜日
ノイズキャンセリングヘッドホン
2012年5月28日月曜日
スカイファーム
…屋上農園とかプランターガーデニングとか言うよりカッコよくね?いま考えた言葉なんだけど。タイトルね。
トマトに実がついた。
今朝、水やりの際に受粉をさせようと花を弾いたら古めの花が吹っ飛んだので、お?花が終わったなら実か?と思いよく見ると、小さな青い実が二つ。
かわいいですなー。
トマトは、全部ミニだけど三種類植えてあり、すべて花が咲いてる。食べ比べが楽しみだ。
あと、キュウリ。支柱を買うのが遅れて昨日立てたのだが、すでにある程度は地を這って伸びていたから、葉っぱが全部、縦になってしまっていたのだが。
一晩明けて見たら、葉の向きがすっかり変わってしっかり水平になっていた上に、これでもかとツルが巻き付いていた。
…動き速いなあ。俊敏だ。
他にオクラ、パプリカ、枝豆を植えてあり、皆元気。枝豆以外は冷やしうどんにでも乗せようと画策している。
2012年4月13日金曜日
ハッカーと画家、そしてジーパン
最初の方の、ナードの分析(著者の自己分析)も非常に面白いというか、そうだよなあ…と頷かされると言うかだし、その他にも面白いことがたくさん書いてある。
最近流行りのビジネス書なんかが実にバカバカしく思えるような、「それ言っちゃオシマイだけどその通り」みたいな話が多くて、こういうのばかり読んでると会社の上司というか管理職の方々と真面目な顔してお話できなくなってしまうと心配になるくらいだ。
今度時間がある時に、気に入った名言をいくつか引用でもしてみようと思うのだが、とりあえず一つ、とても気に入ったものの見方を紹介しておく。
曰く、
流行の本質は、それが流行だとは誰も思っていないという点にある、
とか何とか。
いま手元に本が無いので、そのままの引用ではないが意味は合ってるはずだ。
これは、俺も昔から思っていたことだが、まあ奇麗な一文にまとめてくれたものだと。
ここからは俺の回想を述べる。
小学校高学年くらいの頃、ケミカルウォッシュのボンタンジーンズ(足首は非常にスリムなのだが、2タックとかの)が流行っていた。そう、まさに流行っていた。
で、社会の教科書か何かで70年代頃の若者の写真が載っていて(ただ写真が古かっただけで、若者の服飾文化云々という話ではなかった)、それを見て俺は大いに笑い転げていたのだ。
…ナニこのジーパン、ベルボトムっての?昔はよくこんなの穿いてたよな。だって変だよ、なんで膝細くて裾がやたら太いのさ!
中学はスリム/ボンタン全盛期にあたり、そのまま過ごした。高校生になった時も、そういう形の改造制服(実際は改造じゃなくて、そういう店で買って来るだけなのだが)を着用していた。
ところが、高校3年になった頃だったか。どうもこの、スリムズボンがダサくなって来たのだ。なんかオシャレっぽい者はむしろ標準的なストレートのズボンになっており。そこで俺も、もともと持っていた標準制服のストレートズボンを穿くようにした。
さらに大学に入る頃には、もはやジーンズはブーツカット全盛期であった。俺ももちろん、ブーツを履いてブーツカットのジーンズを穿いていた。いわゆるオタク臭さ全開の同級生が、いまだストーンウォッシュのスリムジーンズを穿いているのを見て、(自分もボーダーラインのくせに)うわ、だっせえな、何でモモ太くて足首細いんだよ、あり得ねえだろ、などと内心で笑っていた。
この時、もちろん、自分が数年前に正反対のことを考えていたという事実には気付いていた。
だが、俺は愚かにも、こう考えていたのだ。
やはり、スリムのケミカルウォッシュが格好いいなんて思っていたのが流行の恐ろしさだよな。あんな変なものが良く思えてしまって、フレアしたワンウォッシュのシルエットの格好良さがわからなくなるなんて。やはり、ズボンの形は本質的に裾広がりであるべきなのに。なぜって、その方が遠近法と裾が下がる視覚効果により脚がすらっとして見えるはずだし、理にかなってる。暗い色は脚を細く見せる効果もあるだろう。だが、明るく不自然なウォッシュ加工で、ロールアップして足首なんか出してたら脚は太く、短く見えるじゃないか。それが格好いいなんて、加工技術の発展で一時的に生じた麻疹のような流行による病的な感覚だよ…。
…。
そして、就職して数年、社会人になって、しばらくはスーツ生活だったがジーンズで出勤できるような職場に転職した俺は、ある時、若くオシャレな青年のズボンがスリムであることに気づき、しばらくは「へえ…」などとスルーしていたのだが、結局、なんだかブーツカットは古臭く思えてきて、スリムなズボンに乗り換えるのであった。
先日に購入したズボンも、ハードなウォッシュで明るめに加工されたスリム…まあ、むしろスキニーのデニムである。いまは裾をおろしているが、去年の夏などはロールアップで通勤していた。
もっとも、もはや俺は、だからと言ってブーツカットやストレートやベルボトムを「根本的にかっこわるい」などとは勿論思っていない。さすがにそこまでバカじゃない。
ただ、若かったとは言え、自分が、周囲の流行には左右されにくいなどと自認している自分が、思い切り価値観を流行によって塗り替えられていたという事実は、実に面白いと思っている。
俺は、ズボンの観察によって、流行と言うのは「これが流行っている」などと思ってるうちは本物じゃないのだな、とある頃に気付いていた。本当に流行している時には、それはただ常識的な価値観になっているのだ。
ま、ファッションの流行は、俺にとってはただの面白いネタだ。そこまでオシャレに拘ってるわけでもないし。
ただ、ビジネス界の流行には、しばしば辟易させられる。不惑も過ぎたような大人達が、流行に惑わされて右往左往して、したり顔で何か言ってるのを聞くと、笑うのも困るのも通り越して、何か悲しくなってくる。人間て、こんな程度なのかなと。
2012年3月6日火曜日
さば味噌がうまかったのでメモる
- 味噌 大さじ4
- 酒 大さじ4
- 生姜 1かけをスライス
- 砂糖 大さじ4
- 水 2カップ
- 醤油 大さじ1と半分
- 2枚おろし済みのサバに
- 熱湯を掛ける(まな板の上でやったが、やはり網やザルが良さそうだった。カスっぽいの出たから)
- 切って、十字傷を入れて、
- 仕上げ用味噌以外を解いた圧力鍋で30分煮て
- 仕上げ味噌入れて適当に煮詰めて、
- おしまい。
清里の夜 (スノボー行った)
今シーズンは引っ越しも済んだし、ずっと御蔵入りしてるボードを一度でも使いたいなと思っていたが、ずいぶんと予定外な形でそれが実現された。
会社の同僚、と、言っても、以前一緒にボードに行った部下じゃなくて、同じかやや上のが組んだ企画に乗っかる形で、金曜夜発の一泊予定で清里へ。
なんと、同僚の一人が別荘がある(正確にはその親の所有だそうだが)とのことで。
正直、たいした期待もせずに、金がかからず時間も楽になるならとホイホイ着いて行ったのだが、まさかのリアルログハウスに薪ストーブ。
薪のはぜる音を聞きながら、赤松と白樺に囲まれたログハウスで深夜に缶ビール、という時点で俺のリゾート要求は十分に満たされてしまった。
「まったり」という表現も懐かしいが、まさにそんな感じの春間近の夜長に、もうおそらく本来の別荘オーナーのものであろうワインの一本でも空けて明日はそのまま帰ろうかなんて冗談も出たが、初志貫徹のために3時頃就寝。布団を使ってしまうと片付けが面倒だからとかそんな理由で寝袋で雑魚寝したが、意外なほどに暖かく、よく眠れた。
朝、予定より1時間ほど遅く起きて外に出ると、わずかな雨があるものの、おそらくゲレンデは雪がぱらつくくらいじゃないかという紙一重な天気。赤松にはリスが。前日には鹿もいたし。いい気分だ。
結局ゲレンデは、いくらか雪が舞うがあまり寒くないという具合のよい天気。
ファミリーに人気の平和なスキー場で、のほほんと楽しむ。
久々のボードはワックス不良もあり手こずったが、午後にはイイ感じになってきた。が、それと同時に体力も尽きてきて、足許が怪しくなってきたところで早めの終了。
日帰り温泉で露天風呂につかり、自分は運転が無いのをよい事に生ビールまで飲んでしまった。
飯も、高級なものは食わなかったがいろいろ面白かったし、久々にまともに遊んだ。
いやあ、やっぱりこういうのは必要だな。
ところで、行ったゲレンデが「サンメドウズ」というところだったのだが、昼にバイキングを食べた(これがまたなかなかうまかった)食堂のトレーには「キッツメドウズ」と。
なんと、俺が学生時代に一度だけ、仲が良かった高校の部活の先輩に誘われてスキーに(後から思えばそれは合コン?的スキーだったのだが)行って、全然合わない道具(身長より30cmくらい長い板とか)を借りて、何もわからずに頂上に行って散々な目に遭い、「二度とウィンタースポーツなどやらねえ」と誓ったゲレンデであった。滑ってる途中で結構、景色も思い出して来たし。
ただ、その時に、「スノボーの方が簡単そうだ」と思ったのが、数年前に突然ボードに挑戦してみたきっかけの一つだから、これは、そう、ある意味ではリベンジになったのかな。今回は、まあ、普通に滑ってこれたからな。あの時には「俺このまま遭難するんじゃないか」と思ったほど長かったコースも、今となっては短いくらいで。
ま、良かった良かった。
2012年2月21日火曜日
鉄フライパンを導入。これはいいフライパンだ。
2012年2月11日土曜日
What should I do this weekend?
2012年2月5日日曜日
ネスカフェ バリスタで勝手なコーヒーを飲む
ウチは結構コーヒー好きで、休日などは一日に5杯くらい飲む。…のだが、インスタント派であり、豆など買わない。挽いてない豆などもっての他だ。
まあ、正直、以前はレギュラーコーヒーも買って、普通にドリップして飲んだこともあったのだが、だいたい面倒で飲まなくなって途中で捨てるので、買わなくなった。
で、昨年秋に引っ越してキッチンも広くなったところで、コーヒーメーカーを導入…というありがちな選択の代わりに我が家に導入されたのが、このネスカフェ バリスタである。
こいつは、インスタントコーヒーの粉を予めタンクにセットしておくことで、ボタン一つでコーヒーが飲める優れものだ。粉は当然、ネスカフェゴールドブレンドなのであって、そのままでも違いのわかる味わいなのだが、このマシンは、ただ粉に熱湯を注ぐというアイテムではないので、普通にお湯を注ぐよりも美味く出来る。Amazonのレビューなどでも高評価だが、同じくそのレビューでも指摘される唯一の弱点は、若干温度がぬるい(確かに熱湯並みの熱さではない)事であるが、そもそもコーヒーってそんな熱湯みたいな温度で飲むものだったか?と思うし、だいたいがして俺は猫舌なのでむしろややぬるは有り難い。
ということで、とても重宝しているのだが、もう一つ、弱点とは言わずとも…というところが、その粉カートリッジにある。これが、ネスカフェのエコパック専用で、つまりゴールドブレンドとせいぜい香味焙煎しか飲めない。
で、これをクリアして他社製も含め様々な味を楽しむために、カートリッジの反対から少しずつ粉を入れる…などの手法が提唱されている(ネット上で)のだが、俺はこれを、実にクールに解決している。
その方法がこれだ。
2012年1月24日火曜日
男の弱さ、脆さ
雪の予報は知っていたが、降水量の予想が1mmだったので、大したことにはならんだろうとタカを括っていたらまさかの積雪。
都内のオフィスを出た頃は「雪が混じって来たかな?」くらいだったのだが、さいたまは…つうか武蔵野線は止まってました。まあ、ポイント故障とかいう話だから、そんなこともあると諦めるところか。武蔵野線と言えば風が吹いても止まるってな感じで悪天候に弱かったのだが、最近は各種の工事により改善してきてたのだけどね。
それでも、(振替乗車の券を貰い損ねたのが悔やまれるが)バスを利用して帰って来られたのでまあ、良い。良かった。雪で滑った車に轢かれることも、無理に妻に車を出動させて事故ることも無かったのだから、良かったのだ。家に着いて、そう思った。
さて、しかしこのバスというのは酷かった。何せすごい混雑だ。予想は出来たのでタクシーも検討したが、何せ料金がねえ。ステーキ1回食えるくらいはかかるし、そもそもタクシー待ちの行列も凄い長さになっていた。
で、大人しくバスに乗ったのだが、何せあり得ないほどの混雑。と言っても、きっと朝の通勤通学ラッシュ時の2割増程度で、荒天時のデフォルト程度なのだとは思う。少なくとも、かつての山手線の伝説のように、圧力で本当に肋骨を折って人死が出るほどのものではない。足も地に着いていたしね。耐えられるレベルだった。
耐えられるレベル、とは言っても、俺は本来はあまり混雑に耐性がない。会社への出勤が遅いのも混雑した電車が嫌いだからだ。言い訳と言われようと我がままと言われようと、他人と身体を密着させるような混雑は嫌いだ。耐えられない。臭いも酷いし二酸化炭素分圧が高過ぎるし。
でも、それは日常としては耐えられない、という意味であって、今日のような特殊な場合に短い時間であれば耐えられる。嫌ではあるが、大人しくしていられる。
ところが、それが出来ない者がいる。
雪の中、長い列で待っている時、バス会社の社員が臨時に駆けつけて「…XX系統のバスですが、国道YY線でスリップ事故に巻き込まれまして、大幅な遅れが見込まれます!」などと大声でアナウンスするのを聞き、一人大袈裟に溜め息を付く。何やらブツブツ独り言を言う。
満員の車内では、やれ傘だかカバンが足に当たるだの、混み過ぎだの、降り難いだの、何かにつけてブツブツと文句を足れる。降りる人がぶつかる(満員なのだから当然だ)とイチイチ後ろから睨む。そして、こういう場合に常に目撃するのだが、一度立った場所から動かない。掴んだ吊り輪を離さない。愛する人が崖から落ちるのを必死で繋ぎ止めているその腕であるかのように、身体が押されて離れても、その手だけは放さない。あるいは、床から足を、1センチだって動かさない。
これらは、はっきり言ってまったく理に適っていない。けして快適な環境でないのはその通りだが、それに対する反応として、まったく合理的でないのだ。にも関わらず、そういった攻撃的あるいは防衛的な振る舞いをせずにいられない。
それはつまり、ストレスに対する適応機制なのだと思う。つまり、その非日常的に不快な状況に対して、平常心を保てなくなった者のギブアップ宣言なのだ。もうダメです。苦しい、疲れた、こんな状況には耐えられない、叫び出したいです。と。
たかだか、電車かバスが遅れたとか混んだとか、その程度でね。大の大人が。
いささか恥ずかしいことだと思うのだが、そういった行動をとっているのが、大抵は…というか、俺の経験した範囲だけであればおそらく99%くらいは、男なのだ。
今日も、爺さんが2、おっさんが1、若い男が1。そんな感じ。
それで、結局のところは、男というかオスというのはストレスに対する耐性が弱いのかなと、こんな時にいつも思うのであった。
とは言え、深夜に近い帰宅時間という都合上、そもそも男ばかりだという確率の問題なのかも知れない。んー、でもどうかね。今日のバスにもお姉さんもおばさんもそこそこ混じっていたけどね。やはり、おっさんの不満の方が…本人は苛々を声に出して、ある意味ワイルドに思っているのかも知れない(実際、「俺はこういう時に黙ってらんねえからよ!なんで皆黙ってんだ、だから日本人はダメなんだ」とか宣っているおっさんもかつていた)が、その内容と声音は、俺にはストレスに押しつぶされる寸前の悲鳴にしか聞こえない。
だから、科学的な判断ではないが、やはり環境ストレスへの耐性という点では男は弱い、というか脆いなと思う。
もっとも、かと言って、俺が女性を見る時にいつも「女は強い」などとくだらないバイアスで判断しているということはない。それは、「アメリカ人?なら彼は金髪で碧眼なのだな」という判断と同じ程度の精度しかない発想だということも、よくわかっているつもりだ。
2012年1月22日日曜日
とりあえず、走ってる
いろいろやりたくて、出来ないでいる。理由はいろいろあって、だが瑣末なもので、本当に理由なのだか本当は言い訳なのだか、わからない。
で、体力系については、ともかくせめて休日に走るくらいはと。
夕方なので、東廻りにコースをとったら、後半は富士山が綺麗でよかった。











