2011年3月18日金曜日

我々が築いてきたもの

3月11日の夕方、都内のビル群。




言わずもがなだが、東日本大震災の直後だ。宮城沖、続いて茨城沖と揺れた後で、この窓の左手からは台場で黒煙を上げるビルが見えた。
もっとも、黒煙の正体は工事中のビルの屋上で何かが燃えたというようなもので、大事に至るものではなかったのだが、晴れていたと思ったのにいつの間にか、この時間にして厭に暗く立ちこめた雲に、何とも不気味なものを感じた。

その後に何が起こったか、起こっているかはここで語ることでもないだろう。

ただ、俺の身の回りに起こったことと言えば。


当日は、すぐに帰宅許可が出たものの、鉄道がほぼ全線不通となり、帰るに帰れない。泊まることになるかも知れないと晩飯を買おうかと思ったが、窓から外を見下ろすと、弁当屋やコンビニには既に見た事がない行列が出来ている。

ま、大きな店なら空にはならないさと、同僚と少し離れたスーパーに惣菜を調達に行けば、品物がなくなり臨時閉店だと言う。居酒屋も、満席か閉店か。最期に1軒、焼き肉屋の最期のテーブルにたまたまありついて、勢いでビールなど飲んで。

ここまではまだ、事態の重大さにあまり気付いていなかったのだろう。

東北沿岸で深刻な被害があったことは既にニュースになっていたが、悪ければ1000人ぐらいは亡くなってしまうかもなと話していた。道路は凄まじい渋滞だったし、鉄道はその日には走らないとわかったが、一時的な混乱と考えた。

実際、俺は、なぜかこの日たまたま「気分で」クルマで出勤して(オフィス近くの有料駐車場に2000円払ってまで)いた後輩に、家が近いこともあり送ってもらうことにした。空いていれば30分そこそこという道のりを、4、5時間かけてのドライブになってしまったが、半分はイベントとして楽しんでいた。車の中にいてもわかる余震があっても、「おうっと!」なんて。

が、もうすぐ家に着くという頃、ワンセグテレビの速報に「震源が新潟」と出た時に、ふと、とてもイヤな感じがしたのは覚えている。あちこちで地震が起きているから、ではない。俺はこれでも地学分野を専攻していたから、プレートテクトニクスに基づく地震のメカニズムはある程度は理解しているつもりだ。宮城と連動して茨城、そして新潟まで大きく揺れるということが、規模の大きさを語っており、だとすると最初の震源の東北は…ただ事ではないのではないかと思ったのだ。いや、ただ事じゃないのは既にわかっているのだが、思っている以上に大問題なのではないかと。

結局家に着いたのは早朝と言ってもよい時間。この時点で、朝飯のパンをと深夜営業のスーパーに立ち寄った。さいたま郊外の早朝のスーパーでは、パンもコメも電池も十分だったが、都心での枯渇を見ていたので、「まとめ買いした方がいいだろうか」と考えた。だが、過剰なまとめ買いは、過剰な品薄感を演出し、さらなる買い占めを呼び…と、そういう悪循環はすぐに想像できたから、その日に食べる分のパン程度を普通に買って、帰宅した。誰に咎められるわけではないが、パニックの先鞭をつけたくはなかったし、本当に食糧が枯渇することなど無いと確信もしていたから。


土日、延々と流される災害特別番組。見れば見るほど、とんでもないことが起こったのだとわかった。それでも、まだ、問題は東北で起こっていると考えていた。関係ないと思ったわけではない。東北には親族もいる(無事は確認できていたが)し、景気が悪化するだろうなとも思ったし、停電の話もあった。義援金を送ることを決意したりもした。が、問題の現場はもうちょっと北だと。自分は…首都圏の人間は、淡々と粛々と日々の仕事をこなしながら気持ちとお金で支援をして行けばいい、と。

コメの買い占めもガソリンの買い占めも、予想は出来た。そういうことは起こるだろうと。だが、ほどなく解消するだろうと思っていたから発作的行動はとらなかったし、今もそうだ。俺はガソリンを買うのに2時間も並ぶ気はないし、コメを探して市内中を旅する気もない。

原発の放射能汚染へのパニックから、首都圏を脱出して西へと逃げる人びとも、多少は出るだろうと思った。こんなに多いとは情けない限りで、ああ、もうさっさと出て行って、その代わりに二度と関東に戻って来んなよ、バカが減るなら都合もいいしな、などと言いたい気にもなるが、まあ、そこそこ想定内の事象ではある。

が、交通の混乱を見越して休日となった月曜、火曜が明け、水曜日に出社してみると、まさかの展開が待っていた。

何人かの、外国人の社員が、パニック状態に陥り帰国してしまったのだ。その中には、本人ではなく本国の親が、国内報道以上にセンセーショナルな海外メディアのニュースを見てパニックを起こし、「何がなんでも帰って来い、すぐに日本を脱出しろ」と騒いでいるため、仕方なく帰った者もいる。

そんな中に、優秀なエンジニアであり俺の信頼できる部下である者も複数、含まれていた。

帰国すると言っても、会社を辞めたくなったわけではない。実際、辞めもしない。だが、とにかく今はここにいられない、ということなのだ。インターネット経由の回線を使って仕事をすることも出来るが、しかし、やはりそれは効率が落ちる。俺は、出来れば踏みとどまって欲しかった。

だが、地震のない国で育ち、「津波」という概念すら持たない彼ら(或いはその親)には、天災で1万人以上が消息不明となるような事態そのものがまったく呑み込めない。理解の問題ではなく、受け入れられない。そして原発事故も。実は日本は、過去に何度も原発事故を体験している。原爆も落ちている。嬉しい事ではないが、ある意味での核への免疫はあると思う。だが、それも彼らには無い。



俺は、偏狭なナショナリズムは嫌いで、日本だニッポンだとすぐ括るのは嫌なのだが、この時に、ああ、アホな都知事は無いと言ったが、確かに日本人にはアイデンティティがあるのだなと感じた。

明文化して定められてことのあるものでも無いし、一言であらわす単語を俺は知らないが、この、凄まじい災害を受け入れられる姿勢、ある種の諦めと開き直りと粘り強さというか、今、海外メディアがさかんに賞賛してくれている日本人の美徳が多少持ち上げ過ぎだとしても、何か独特なものはある。



…自称「社内一の少数精鋭チーム」として長く一緒にプロジェクトを進めてきた部下に、その日の便で帰ると告げられた時、俺はもはや、それを責めようとか止めようとかは思わなかった。いくら仕事が何だと言っても、何の比喩もなく命をかけてやれとは言えない。そういう仕事じゃない。もちろん、俺は、今の東京に留まることが命懸けの決断だなんてちっとも考えてはいない。だが、それは理屈だ。恐怖は理屈ではない。日本人ですらその恐怖に負けて首都圏脱出をしているのだ。

ここはけして危険じゃないが、お前が不安になることは理解できる。だから気にせずにまずは逃げろ。諸々が落ち着いてから、どうするか考えてくれ。そんな話の中、ふと、会議室の窓を見やり、俺は言った。

なあ、ちょっと外見てみろよ。東京だってあれだけ揺れたろ。向かいのビルが曲がってるのが見えたろう?
でも、ここから見えるビル全部、ガラスの1枚にヒビだって入ってないだろう?日本は地震の国だ。何度もあちこちで大きな災害があり、建物も壊れ、多くの人が死んだ。が、その度に耐震基準を厳しくし、揺れに強い建物を研究して、こうして街を作ってるんだ。
耐震も都市計画もいろいろケチも付いてるが、でも確かに成果は出てるだろう。この無傷の景色がその証拠だ。
何をそんなに怖がることがあるんだ?

そんなことを言いながら、これまで、何度も破壊され、作り直し、非難され、改善し、破壊され、また研究し、造り…そういう歴史の積み重ねを思った時、なぜか、泣きたいような気持ちになった。

日本人の総体の素晴らしさに感動したんじゃない。

常に研究、研鑽をして、より高い安全性を確保しても、どこかに綻びがあれば庶民からもお上からもボロクソに言われ、それでもまた何かを前進させ、確かに何かは進んでいるのに、普通の人には出来ないことをしているのに、「完全じゃないから欠陥だ」という魔女裁判のような理屈で批判され、たとえ無能だ嘘つきだと言われても、それでも前に進んで行く技術者の業のようなモノに泣けてきたのだ。

地震で壊れないビルや街を作った彼らの”活躍”は、被災地の前線の男達のように派手ではないけど、全部は救えなかったけれども、でも確かに無数の命を救った筈だ。


まあ、少々大袈裟、おセンチな話だ。
ただ、俺は冷徹な素振りを意識してるけど、実は結構、涙もろいんでね。

0 件のコメント:

コメントを投稿