2009年2月28日土曜日

光の中で見えないものが 闇の中にうかんで見える

昨秋に生まれた子ども(長女)は、順調に生き物から人間への変態を続けている。

まだ這うことすら出来ず、言葉の1つも発しないが、生まれて間もない頃に比べ、力強く、意思のもとに統合された動きを見せ始めた四肢、格段に豊かになった感情表現、何よりも、ただ光を映すという以上の機能と意味をもって世界と対峙しはじめたその眼差しに、深い感慨を抱かずにいられない。

すべてが好奇心の対象であり、認識をする、ただそれだけで拡大して行く世界のただ中で、きみが何を想うのか。

きみの周囲、未来には、ありふれた困難が待っている。きみが成長し、1つ困難を解決するたび、新たな問題は次から次へと絶え間なく湧き上がり、すべてが消え去り平穏が訪れることは次には一度きり、最期の時までないだろう。つまり、二度とは訪れない。

生まれた時から人生は困難の連続だ。

否、俺は見ていた。

生まれる前から、きみの人生は困難に満ちていた。きみが、そうとは知らずに決死の覚悟で、必死の思いで、文字通り息も出来ない苦痛に挑み、誇張なく命懸けで、そもそも生れ出て来たことを。

だが、まあ案ずることはない。地球に生きる50億以上の人間も、それ以上のほ乳類も、その同じ困難に耐えて来たのだから。

その命懸けの克服が、確かに命懸けであっても同時にありふれたものであるように、この後の人生で訪れるどうにもならない問題も、きっとありふれた解決が可能だ。

だから、生きることは絶え間ない困難に満ちていながら、しかしそれ自体は何ら不幸なことでも苦痛なことでもない。


さて。


子どもを抱いて、電磁波浴ということでYouTubeを眺め、「みんなのうた」を拾った。

自分が子どもの頃に聞いて好きだった曲の中で探すが、ここでは、優しげなメロディーが印象的な

「まっくら森の歌」

を。




「光の中で見えないものが 闇の中にうかんで見える…」という歌い出しからして、もうこりゃ何と云う深いメッセージソングなのか。

そう、我々の認識する万物は相対だ。昼間の月が暗いのは、月が暗いからじゃない。

と、大人になって改めて見れば大仰に言いたくもなるほどに、
みんなの歌には、少なからずこうした、やけに深い洞察を感じさせる歌が存在しており、それらは、子ども時代の自分にも、漠然と何かを考えさせた。

あの歌い出しの言葉から、今の俺なら、冒頭に書いたような蘊蓄を捏ねる(時間があればあと2万字は行ける)。子どもの時は、そこまでは出来なくて、ただ、「どういう意味だろう、言葉通りのそれだけなのか、比喩なのか」といったことを、それすら明確に言語化できずにモヤモヤと抱えただけだった気がするが、それはそれでも価値があったと思う。

毎日8時間くらいはネットにパソコンに向かっている俺は、テレビというのはほとんど見ないし価値もあまり感じないが、しかし、良質な番組があるならば、ネットとは違う価値がある。それは認める。

2009年2月25日水曜日

宮城峡

酒は好きだ。

日本人の例外に漏れることなく原則としてビールを好むが、それはなんて言うか水代わりと言ったら言い過ぎだが、ま、とりあえず一杯というやつであって、そう積極的に好きだというものでもない。結構好きだけど。

ビールは、もう習慣として、とりあえず家に着いて喉乾いたなあと冷蔵庫を開けてプシュ、という感じだが、さらにもうちょっと飲みたい場合は、他のものもチョイスする。

そこそこ流行に乗っかったりして、焼酎やワインを飲むこともあったが、やはり、俺としてはウイスキーは好きだ。

なんだろう、そこはかとなく漂うワイルドさに憧れているのかも知れない。

二十歳頃、初めてバイクでツーリングしながらキャンプしていた時にも、サントリー角瓶を持って行ったが、これは実は美味くなかった。角がいけないのではない。まだ、ウイスキーを飲める味覚を持ってなかったのだ。だからこれは、寝酒代わりに一口あおっていただけだった。

しかし、数年後には俺の味覚もアルコール耐性も育っていたようで、晩夏の山上湖畔、天の川を見上げて飲むバーボンのお湯割りは実に美味かった。

今は、仕事でヘロヘロになって帰宅し、ベッドに足を突っ込みながら飲んでいるが、しかし煙たいモルトと強めのアルコールは、何がしか、郷愁とともに、明日…これから24時間という意味ではなく、比喩的な意味での明日な、への静かな鋭気を呼び覚ましてくれる気もする。

で、飲んでるのがこれ。



この前は余市も飲んだんだが。こっちの宮城峡の方が好きかも。どう、と言われても余市の味を忘れてしまったので何とも言えないのだが。

忘れてるのに何で比べられるんだ、と言われると困るが、印象がいいのだからきっと俺にとって美味いということなんだ。


ただ、まあ、俺は東北好きだから、贔屓してるかも知らんね。




ちなみに飲み方は、ウイスキーと水が同量程度か、水がちょい多い程度の水割りが好きだ。

氷は単に作ってないことが多いから入れないのだが、以下ページによると、なかなか通な飲み方らしいぜ。
http://www.nikka.com/start/howto/howto.html

2009年2月22日日曜日

仕事の評価 Großbelastungskörpe

窓のない重量1万2650トン、高さ18mのコンクリート塊。
ナチスが建造し、3年で7インチ(17.8cm)のペースで地中に沈んでいる物体です。



http://www.gizmodo.jp/2009/02/grossbelastungskorper_1.html




ということで、ギズモードおよびライブドアのニュースで紹介されていた、ナチスの遺構。

で、その解説と評価。


こんな変なものベルリンの真ん中に作ってナチスも何かんがえてるんでしょうね。秘密兵器の隠し場所? ヒトラーと親衛隊を隠す極秘の超ヘビーな箱? はてまたナチスの地獄の入り口…? 

答えは、もっと分かりきったもの。馬鹿みたいなことです。
 

このschwerbelastungskörper。実は、ベルリンの地盤がどれだけの重みに耐えうるか、その強度を調べるため造ったものなのです。

(中略)

結果は思った以上に悪く、コンクリート塊は最大2.5インチまでならまだしも、先述のように3年で7インチ(17.8cm)も沈下、予定よりずっと手間がかかることが判明しました。彼らの狂ったアイディアは他も大体こんな調子でしたけど…。あの変なちょび髭男の失敗は、こんなところにも残ってた、ということで。





…。

どこが狂ってるって?

すまんが俺にはよくわからない。

こういう調査方法は建築業界では意味のない方法であることが自明だということか?

そうではないだろう。



ナチスやヒトラーの行為が、善いことであったとは思わないし、彼らが常に論理的であったとは思わない。

しかし、巨大な建造物を作るにあたり、サンプルを用いて実際に地盤沈下があるかどうか調査しようという方法の、どの辺りが「狂ったアイディア」なのかな?

少なくとも、俺には、とても有効な方法論に思える。70年ほども前の話なら尚更だ。東京で人為的な地盤沈下公害が出たのは戦後だそうではないか。軟弱地盤上の建築物は、比較的最近にも大きな問題になっていたと思うが。戦後、いや今でも、地盤沈下は懸念すべき問題であり、また完全な予期が出来ない問題なのだろう。

それでどうして、70年ほども前の大きなプロジェクトの前に、確証の薄い理論よりも確実性の高い実験方法で、あらかじめ調査を行い、「危険性あり」と予見したことを、「ちょび髭男の狂ったアイディア」などと一蹴して嘲笑できるのだろうか。実験は正しい結論も導いたようなのに。


彼らの行いが、全体において非道だったとしても、それは個々の行いそれ自体が、その直接的な目的に対して持っていた効果、妥当性の評価とは関係ないだろう。ゲルマニアが誇大妄想だったとしても、それと地盤調査の方法論の妥当性は別じゃないか。


もっとも、建築学的、地質学的に、彼の方法は意味がない、というならば、笑えばいい。それがわかる人は。

だが、引用したニュースの記事を書いたり訳した連中は、そんなことはまるで理解できていないのではないか?自分でその価値についてなんの理解も出来ないし、する気もないのに、ただ敗者の行為だというだけで、侮蔑する。

そういう人間には、言ってやりたいのだ。

ナチスの科学技術力は高かったに違いない、しかしそれを超える戦力を連合国を持っていた、そして、かつて連合国だった国にお前が住んでいるとしても、だからと言ってお前がナチスやヒトラーを屈服させたわけじゃない。お前が勝ったわけじゃない。


俺はナチスや旧帝国軍に気触れてるわけじゃない。あんな記事を書いたり、同意するような、短絡的な傲慢さを持った人間は、つまり少しでも自分が相手より権力に近い立場にあると思えばそれだけで自分が相手に対して絶対的な価値の決定権を持てると錯覚するカスであり、そういう人間がつまり、そのちょび髭男なる人物に力を与え与えられ、人々を踏みにじったのだろう、と、そう思っているだけだ。

だから、例え対象がナチスであろうと殺人犯であろうと、根拠なき嘲笑や侮蔑という行為は、それこそが軽蔑の対象だ。

2009年2月21日土曜日

オフィシャルブログ

…って、いっぱいあるじゃない?

あらゆるジャンルの芸能人、スポーツ選手に著名人。

まあ、技術系、経済系、時事系などなどの著名人のブログは、往々にして「こいつ本当は暇人なんじゃなかろうか」と思うほど長いこともあるけど、およそ芸能人のオフィシャルブログについて。

…なんで、ああ文章が短いの?

携帯で入力してるから?ポエム風を狙っている?長く論理的なまともな文章書くと書いちゃいけないことを書いてしまう恐れがあるので予防のため?

例外もいろいろあるだろう、実際に、テレビ越しのイメージを頭のいい方向に裏切るものなんかも見た。

だが、大勢としての印象としてだね。



今日は散歩

最近すっかりあたたかいですね(^_^)


ところで。。。



最近、ハマってるものがあります!


ジャーン。




だんご



幸神堂というお店です

とてもおいしいです(≧д≦)


まだ寒い日が続きます


みなさんも風邪には気をつけましょう(^ー^)ノ








小学生だってもうちょっと意味のある作文をする。

いい歳した大人、義務教育以上の教育を受けた人間として、あまりに稚拙な文章ばかりを書いて公開することは、それしか書けないという誤解を招く恐れがあり、そのように誤解されてしまうのは当人にとって恥ずかしく嘆かわしいものだろう、と心配になるのだが。


日本における「ブログ」というものが、なぜかこういう文章を許容する空気を生み出していると思われ、そういう意味では、ブログには罪がある。

2009年2月19日木曜日

強くあれと

親父にはそう云われ育てられた。

とても昔の話。

が、強くなるための具体的な方策は与えられなかった。そもそも、俺は体格は平均よりやや小柄。筋力は弱め。肝も座っていない。身体的に弱い。
だから空手を習いたいと、子どもの頃に親父に言ったら、「そういうことをすると人間が調子に乗って傲慢になり、暴力に頼り暴力に潰される」と言うようなことを、もっと陳腐な言い方で諭された。…昔に琉球空手だかなんだか齧って俺をすぐ張り飛ばす自分を棚に上げやがってクソ。

ま、その後も、ずっと俺は喧嘩も弱く、おかげでグレることも出来ずに勉学に勤しみ大学を出ておそらく全うな社会人にもなれたので良いとしよう。

で、その社会人になってしばらくしてから、会社の近くの空手道場に入門した。いい歳こいた社会人相手の道場だから、そう恐ろしいところではなく、スポーツジムに近い感覚もあるが、気づけば3年以上。

俺も少しは強くなったのだろうか。

もっとも、世界の男の格闘強さ偏差値で見れば、段すら持ってない自分がそう強いとは思わないが、ただ、3年前の自分が相手ならきっと確実に勝てるという感覚はある。体力はそう変わらないが技術は少しは身に付いたと思うから。

それはつまり、幼い頃に憧れた「強い男」へ、わずかばかりなり近づいたということか、と一瞬思うが…

大人の強さのパラメータは幼少期とは比べ物にならないほど複雑化していて、突きや蹴りでは解決できない問題が多過ぎるのだった。

とは言え、そういった鍛錬がもはや何の役にも立たないかと言えば、仕事で大揉めした会議で取引先に恫喝的な態度で臨まれても怯まない役にくらいは立つのだから世の中は笑ってしまう。嘲笑ってしまう。


ま、結局のところ、歳を重ねるほどに、頭も体も意識して鍛えなきゃいけない所ばかり増えて、難儀な話だ。


今日は久しぶりに稽古に行ったのだ。いい汗を掻いた。


しかし、稽古は久しぶりの汗を楽しむ程度じゃ役には立たないものだろう、それが問題だ…。

精進精進。

2009年2月18日水曜日

飛行機に乗って、街灯りを眺めれば

それは一見、静謐で。

細かい光点が寄り添うように凝集して、大きな光の塊となり。

それらを連絡する、網目状に、腕のように延びる幾筋もの脈。そこを規則的に流れる光点。ある方向は白く、逆方向は赤い。まるで動脈と静脈のような対比。

塊と、脈と、そこから溢れた仄白い屑。しかし、それらはまた新たなコロニーの萌芽とも。


ああ、これはまさに。

粘菌のコロニーと同じだ。



…と、昨年末に出張で乗った飛行機から、夕闇の地方都市を見下ろしながらつくづく感心したのだった。それをふと思い出した。


粘菌、あるいは黴か。

漆黒の奥羽山脈あたりは、瑞々しい培地だ。栄養があり、生命を育む余力がある。都市部が近づくにつれ、黴が毒々しい彩りを放ち、分解者たる黴はひたすら培地を蝕む。

今更ながら、人を黴や菌になぞらえることは、ありがちなようで本当に出来すぎた直喩だと、重ね重ね感心した。

みんなが黴やら菌やらに嫌悪感を覚えるのは、節操のない連鎖で増殖するヘテロトロフィックな生物、という括りの同族嫌悪に違いない。


他の動物達は、群れだ社会だと云っても、あのように菌に直喩できるようなコロニーは作らない。やはり、人間は特別だ。

だがこの特別という感慨は、超越者の愉悦ではない、菌が知恵をつけてしまったことへの悲哀だ———





以上。今日のポエム日記おしまい。

2009年2月17日火曜日

それにしてもWindowsはショボい

こんなのをやってみた。

GSAT(オタクの社会適性テスト)
http://www.gizmodo.jp/2009/02/gsat.html

スコアは15点程度だから、俺もまだまだ小僧に過ぎないようだ。でも、

5. 自分が使っているOSやガジェットを買うよう勧めるのが大好き


これに○を付けた俺としては、いま、ここでMacの素晴らしさを語らないわけにはいかない。今語らなくても何時でも語れるが、今も語りたい気分だからまあ聞いてくれ。

Macの素晴らしさは、いろいろある。そう、そのハードウェアの造形美とかね。この点においては特に、WindowsだのLinuxだの、話にならんよ。だってそもそも、Windowsは、専用の(マイクロソフト製の、と言い換えてもいい)ハードウェアが、存在すらしないのだから。

まあ、ともかくそれは今回はおいておく。重いばかりで派手だがどこかイモ臭く、結局何がしたいのかよくわからないAero(MacOSのAquaを真似たからって、名前まであからさまに似せなくてもいいと思う)とか、それもまあ、どうでもいい。

今、ここで問題にしたいのはウェブブラウザだ。

俺は、WindowsでもMacでもFirefoxを使っている。まあ、IEやSafariも使うけど、Firefoxはよく出来ているし、MacとWindowsのどっちもで概ね同じ操作感で使えるのがよい。

が、だよ。

同じFirefoxで、同じページを見てもだよ。


全ッ然、違うのだよ、ウェブサイトの見た目が。本当にまったく。

家でMacで見てたサイトを、翌日会社でWindowsで見ると、「うわ、きったねぇ」と思って愕然としてしまう。


わかる人にはわかるだろう。わからん人には…つまり、Macユーザでない人にはわからんだろう。


ということで、このブログの画面をMac Firefoxで見た画像キャプチャを貼ってあげよう。




ぜひ、クリックして実寸で見てくれ。

Windowsオンリーの諸君、今、君が見ているこのサイトが、Macであればこのように美しくなるのだ。もちろん、このサイトだけじゃない。どのサイトでもだ。

アルミボディのMacBookは14万円台から。5年も使えば年3万、月々2500円だ。

毎日数時間はネット見るんだろ?なら、この快適さに対して高い投資じゃないと思うぜ。


ギャオとか見れないけどね。まあ、あんなのはどうでもいい。YouTubeやニコニコ動画は見えるし。

2009年2月15日日曜日

安い蕎麦とて

安いなりに美味いの不味いのあるわけで。

会社の最寄り駅、田町の改札近くには蕎麦屋が2軒並んでいる。

いずれもチェーンで、一応椅子が無いでもないが、限りなく立ち食いに近い店だ。

俺はそばが好きなので、そのうちの片方、「名代後楽そば」なる店をよく利用していた。ここは、十割そばが売りだが、かき揚げを付けてもワンコインでお釣りがくる店に、過剰な期待はしていない。

それでも、どこの立ち食いそばにも書いてあり、ほぼ間違いなく嘘である「打ち立て茹でたて揚げたて」が、この店ではほぼ事実だったので、ワンコインにしては十分過ぎる程度に美味く、しょっちゅう食っていたのだ。


で、最近は家で飯を食っていたためご無沙汰だったのだが、先日久しぶりに寄り、掻き揚げセイロを食った。




ところがだ。


いつも夜の時間帯に行くと、若干いかついが威勢のいいアンチャン風の人がしきっていたのだが、人が入れ替わったらしく、眼鏡のおっさんに代わっていた。まあ、風貌はどうでもよい。

問題は、だ。

まず麺が、やっこくてヌルい。思うに、茹で過ぎというよりは、茹でてから時間がたっているのだ。つまり、客がたいして来てない時に作り置きしやがったわけじゃないだろうか。

そして、掻き揚げ。やけに早く出るなと思ったら、これも作り置きしてやがった。以前のアンチャンは、いつも注文が入ってから揚げていたから、サクッとした揚げたてだったのに。作り置きで冷めてて、しかも衣が厚ぼったくなっていて裏側がべっちゃりしていたので、もたれるから半分で止めた。

そして、薬味ネギが椀から溢れて横に数欠片張り付いていた。ぴろんと。味には関係ないが気分は悪い。

さらに、端っこの席に座ったのだが、何か生臭かった。以前はそんな風に感じたことないのだが。水回りの淀んだ匂いで、掃除が行き届いていないのだなと思った。


ま、どこまでが人のせいでどこからが偶然か、それはよくわからない。

だが、もう行かね。

と、そう思った。

きっと商売なんてのはそんなもんだと思う。瑣末なことが、積み重なって成果を変える。

俺は小売りでも飲食業でもないが、気をつけよう。「このくらいなら」という手抜きは、消費者には確り伝わると。

2009年2月14日土曜日

MacBookを買ったので、

新しくブログでも始めることにしよう。

…いや、これまでもiBookを持っていたし、ほかにPCもあるんだが、MacBookの細部の見た目のカッチョ良さ、マルチトラックパッドな自然な便利さに感激したので心機一転という意味で。

内容は、とりとめのないことにしようと思う。

とりとめなくなくないことを書くためのブログは、ほかにいくつか作っていたのがあるから。



そういや、今日はアレだ、年に一度の大事な日じゃないか。

ほら、2月14日と云えば。

あの、ちょっとほろ苦いところが美味しいアレを食べる日だろう?
まあ、今日じゃなくても毎日だって食っても構わないんだが。

みんな、しっかり手に入れて食ったかい?

煮干を。


※2月14日は、全国煮干協会が定めた煮干の日です。2(に)、1(棒→ぼう)、4(し)。