2010年8月29日日曜日

D3000にニューレンズを買ってしまった

初夏に喜び勇んでデジタル一眼レフを買ったものの、この夏はやけにいろいろ忙しくてろくに撮影も出来ず、まだ秋も忙しそうではあるものの、物欲に負けて買ってしまった交換レンズ。

D3000を買った時に、あえてお得なWズームセット(18-55 + 55-200)を買わずに35mm単焦点標準レンズを買ったチョイスはナイスだったと思う。

開放絞り1.8というのは、とりあえずともかく一眼レフっぽい写真が撮れるし。…って、そんなことで満足していてもよろしくないのだろうが、まあ良いんだよ俺はカメラ道の求道者ではないから。

で、次のレンズはだいたい目星を付けていたのだが、結局、シグマの18-200mm F3.5-6.3 DC OS HSM にした。

18-200mmというレンジはちょうどWズームキットのレンジを1本でカバーする。しかもこのレンズは、実売価格がかなりお買い得なのにも関わらず、光学手ぶれ補正と超音波モーター内蔵AFが付いている。画質もなかなか評判がいい。

利便性重視の高倍率ズームは、どちらかと言うと純正よりサードパーティの畑という気がしている。で、ずっとタムロンの18-270mmとかと迷っていてが、まあ、200mmといえば35mm換算で350mmほどでしょう?手で持って撮影するには十分かなと。

逆にそれ以上なら、Nikkorの70-300mmとかを追加するのがいいような…と、まあ、レンズばっかりあっても仕方ないから当分買わないけど、そういうことでこれを買った。

相変わらずアレなんだが、昼間に1時間ほど作って近所の公園などで試し撮りをした。

クソ暑いけど薄曇りな近所の公園付近を30分ほどうろついた中で被写体を探すのは大変だったと言い訳をしておきつつ、気に入ったのはこれかなあ。




空蝉。
桜の樹のちょっと上の葉についてたのを見上げて撮った。

送信者 D3000

200mmの望遠端の手持ちでこれならば、OS(オプティカルスタビライザー)の効果ありというところだろうか。逆光で被写体は結構暗く、開放絞りになっていたので後ろのボケもそれっぽくていいのではと。


続いて、これは…女郎蜘蛛かな。

送信者 D3000

網が奇麗だ。クリックして原寸で見てくれ。


送信者 D3000

こっちは2匹。


他にもカナブンとか油蝉とか撮ったのだが、どうもすべてテレ端マクロ撮影ばかりになってしまったので、無理矢理にワイド端で一枚。


送信者 D3000

公園の脇の林地。

日本の植物相の複雑さは温帯としては異例だとかいう話もどこかで聞いた覚えがあるが、なんとなくそうなのかもなと思う。住宅地の公園の横でもこんなだからな。

18mmの広々感はやはり35mmで下がるのでは出ない。うん。


18mmから200mmというのは、実に守備範囲が広くて、レンズの付け替えが面倒になってしまいそうだというのが不安?だが、それは欠点ではないな。



しかしとりあえず、カメラバッグが必要だな。


最後に、SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC OS HSMについてもう少し。

箱から出した時は、噂通りにでかいな!と思ったが、通勤用の小型ショルダー(A4は入らないやつ)にも入るのだから小さいという言い方も出来る。

オートフォーカスは十分早い。ま、純正35mm以外に比較対象がないのだが、のろいと感じることはなかったし、まず一発で決まる。

ただ、今回、テレ端のマクロ目一杯、しかも開放での撮影が多かったので、何度かはフォーカスが決まらないでシャッターが押せない状態になった。
が、これは仕方ないと思う。フォーカスエリアを絞る設定にしたりすればいいのかも。

もっとも、そういう場合はおとなしくMFでやってしまう方が早いと思ったが、MF/AFはスイッチで切り替えないといけないのが面倒だ。Nikkor 35mmみたいにAF時はMF兼用なら楽なのに。

上記のものはほとんどが200mmで撮影しており、しかもシャッター速度は1/100程度。ジョロウグモが1匹と巣が写っているものなど、1/60秒だ。35mm換算で300mmの焦点距離において、手持ちで1/60秒で撮影してあれだけ鮮明に写る。
手ぶれ補正機能というものの威力を、明確に感じ、驚いた。

撮影している中で、一度、”川の宝石”カワセミを見つけた。…が、公園の池の対岸で、その位置からではさすがに小さ過ぎた。それでも識別できる程度には写ったのだが。
歩いて近づこうしたが逃げられてしまい、しかし、野鳥というのも撮るのが難しいだけに面白い。

樹上にいた各種の蝉やカマキリなどの昆虫も、それなりの大きさで撮影できた。こういう生き物が撮れるのは面白い。

あとは、いい景色とか撮りたいなあ。広角側で。







2010年8月28日土曜日

夏の贈り物

ガタン、とひとつ息をつくような揺れにふと顔を上げると、列車が目的地に到着したことをスクリーンが告げていた。

首都圏の通勤路線を走るこの列車は数年前に導入された最新型で、各車両に10個ほどあるドアそれぞれの上部に2つずつの高精細液晶スクリーンを備えていた。片方のスクリーンには到着する駅の名前やその先の駅までの予定時間などが適切なタイミングでアニメーション表示されており、もう一方のスクリーンは広告の動画を延々と映し出している。

自分が子供の頃の電車の車内には、デジタルな制御を感じさせるものは何一つ存在していなかったと思う。そもそも、少なくとも自分の周囲では、デジタルという言葉は液晶で時間を表示する腕時計の代名詞でしかなかった。電車の中にデジタルな存在を感じた最初の記憶は、小学校も終わる頃の夏休みに帰省で乗った"100系"の新幹線にデジタル表示の速度計があったぐらいだが、それとて「電光掲示板」と言った方が適切であろう、当時は興奮して眺めていたが今となっては原始的なものだった。

こういった電子機器の発展というものは、日進月歩などという月並みな表現では収まりきらないほどの勢いで進歩している。それでも、未だに列車は停止する時には大きく揺れて乗客を揺さぶるのだという事実に、質量と慣性を機械的に制御するという物理的な問題が、液晶パネルに情報を表示するという一見して高度で新しく見える技術以上に難しいものなのかも知れないと思う。

いや、しかしそれは、単に表面的な錯覚なのだろう。列車の揺れは、車両自体の機械的・電気的な制御技術の発展に加え、線路の構造自体の改良も加え、昔よりも速度を増しているにも関わらず格段に抑えられているはずだ。それはただ、結果としては程度の問題として体感されるため、漫然と乗ってその成果だけを無自覚に受け取る乗客にはわかりにくいというだけだろう。

同じように、簡単に目覚しく発展し、どんなことでも出来るかのように思える情報処理の世界も、ひとたびその技術でサービスを提供する側に身をおけば、これが迂遠な努力で少しずつ問題を解決する地味な作業の積み重ねであるということに気づくのだろう。

ふと、そんな思考が過ったのは一瞬のことだ。手元に開いていた「Webを支える技術 -HTTP、URI、HTML、そしてREST」を閉じて、席を立った。

エアコンプレッサの軽い音とともにドアが開き、昼前のホームへ降りる。

異なる温度と密度に支配された空間へと踏み出す。この不連続な変化は、ある意味でデジタルだ。

巨大な蓄熱器と化した高層ビル群に囲まれた都心の空気は、熱く、乾いている。熱いというのは文字通りで、これはひょっとして体温よりも高いのではないかと錯覚する。いや、錯覚ではない可能性が大きい。
しかし乾いているというのは比喩で、実際にはからりと気持ちいいようなものでもなく、しかし田舎の夏のような、樹々や青草や土を感じさせる密度もまたないという程度の意味だ。

蝉時雨ならぬいつも通りの騒音、つまり主に車両の走行音とビル風の音、場違いで空々しい長閑さを振りまく信号機のメロディなどの中、立体的な駅の改札を抜けて地上へと階段を下りると、アスファルトとコンクリートの照り返しがまぶしく、目を細めながら暑さに融けそうな体を引きずるように歩けば、無駄に外壁を鏡面仕上げにしているビルの前で太陽光線が倍量になり、きっと熱力学の計算どおりなのであろう輻射熱によって、きっと赤道直下でもそうは味わえないであろう暑さを体感できる。


暑い。


そう、今年の夏はとりわけ暑い。地球上の大気に二酸化炭素が増えたせい、ではないと思う。そういう問題以前に、端的に暑い日が続いている。早い話がこの夏はよく晴れているのだ。首都圏で空気を温めているのは大気中の二酸化炭素よりも地上の構造物だろう。

しかし、理由がどうであろうとなかろうと、暑いという事実は変わらない。理由がわかっても、それで納得して暑さに耐えられるようになるわけではないので、この場合は暑い理由が地球規模の大気環境の変化にあるか、局地的な地上の構造的な環境変化にあるか、それらの相互関係はどうなのか、考えるだけ無駄だ。だから考えるのはやめよう。

とにかくこの暑さで、最近は食欲まで落ちている。熱いものは食べたくないし、しかし冷たいものを食べて、汗をかいてオフィスに戻り、湿った衣服を冷房で冷やされるとこれはもう確実といっても差し支えない確率で腹に不調を来たし、その一方でオフィスの空調は大雑把で、"エコ"運転において南側窓際の自分の席は30度近く、そんな中で生活していれば日々確実に体力が削られていくのは必然であった。

しかしこんな時こそ何か栄養を摂らねばならない。ふと、駅前の串焼き屋が、ランチ営業でうなぎの蒲焼きを出していたことを思い出した。

うなぎか。

うな丼ならば食べてもいいか。夏のスタミナ源としてのウナギの位置づけはやや民間信仰じみているけども、ビタミンAがとりわけ豊富なのは確かだから、1日中液晶モニターで細かい文字を追って目を酷使している自分のようなエンジニアにはうってつけだろう。

今日の昼には、うなぎでも食べるのも悪くない。そう思いながらオフィスへの10分ほどの道のりを歩く。出社時間が11時であるため、既に朝とは言えない高さまで十分に昇り切った太陽が、ありがたくもないやる気を全開にして地上を焦がすことに専心している。

ようやく、オフィスに辿り着いた。数十人の人間と100台以上のパソコンとエアコンの、熱を巡るハルマゲドンの中で、自分は知恵熱でも出なければいいが(知恵熱は誤用するのがポイントだ)。





暑い。

夜中にタイマー設定したエアコンはとっくに切れていた。連日の熱帯夜、今日も朝から室温は30度を超えている。
すっきりと目覚めたわけではないが、これ以上布団に転がっていても暑苦しいだけなので、渋々と寝床を抜け出し、洗面所へ向かう。

蛇口を捻って、温い水で口をゆすぎ、顔を洗う。最近は水もすっかり温く、加温しないでもシャワーを浴びることが出来るくらいだ。

結局、昨日の昼にうな丼を食べることは出来なかった。オフィスに到着してしまえば仕事はいくらやってもやりきれないだけの量が、どこの食べ放題や飲み放題、乗り放題よりも気前良くやり放題できるように用意されており、その実このやり放題の権利は限界まで行使することが義務づけられている不思議な権利であるため、昼食の時間も惜しく、また、炎天下の昼下がりに駅前まで歩いていく元気も残っているはずもなく、オフィスビルの1階にあるコンビニのパンと牛乳で食事を済ませたのだった。

そのまま夜まで働き、自宅に着いたのは日付が変わる頃。寝る前にたくさん食べると眠れなくなるので、夜は食パンとチーズ、それにビール。

うなぎとは何の縁もない味気ない食生活だ。しかしやはり、もはや日常的に脳髄が茹だっており、食べるということさえ億劫なのだ。いざ、うなぎを食す。という気力もない。


朝食も、多くの場合はトーストを1枚とコーヒー程度だ。

だが、今日は違った。

茶碗に白米。それに、冗談のように行儀よく、大粒の梅干しが乗せてある。




そう言えば先日、今は紀伊にいる旧い友人から、南高梅が送られてきたのだった。

南部(みなべ)高校、あるいは南部の高田梅にその名をいただき、今や知らぬ人のない梅干しのトップブランドとなった南高梅。

大きく柔らかい果実もさることながら、その加工も絶妙だ。いただいたものは蜂蜜を使ったタイプのものでありながらけっして甘すぎず、そのままでも美味しいしご飯にも合う。

大きな粒を一口で頬張ると、軽やかな酸味と甘み、梅の香りが広がり、つつっと箸が進み飯をたいらげた。梅干しとともに食べると、飯は甘く感じる。

梅干しが疲労回復によいとされるのは、ひとつにはその食欲増進の作用にもある。梅干し自体ではなく、食欲の増進によって結果的に梅干しが持つ以上の栄養を摂れるということだ。とは言え、クエン酸を始めとした疲労回復に役立つ栄養素が梅干しには豊富に備わっているのもまた事実。甘い良薬だ。

軽く冷えた麦茶を飲み干して、今日も暑い1日が始まる。今日の昼は、うな丼を食べにも行ける気がした。



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梅干しを送ってくれた友人が、それをネタにブログに書けとわざわざメールで指示をしてきてくれやがったので、「もらった梅干しを食べたら美味かった」という話を目一杯引き延ばして書いてみた。もうちょっとネタがあったんだけど、さすがに面倒くさくなったのでこのくらいで。

…さて、梅干しを肴に酒でも飲むか。


2010年8月12日木曜日

Googleだって永劫不滅なわけじゃないだろう

最近、ちょっとGoogleがイヤな感じになってきた。

昨日だったか、職場のPCでGoogleのトップ画面を開いたら、わけのわからんラジオボタン(つまり、全部が嫌いでもどれか1つを選ばなくてはいけない選択肢)と「いますぐ使い始める」しかサブミットボタンのないフォームが表示され、しかたなくボタンを押したら、かってにトップページがカスタマイズされてニュースやらなにやらが出てくるようになってしまった。

つまり、iGoogleであり、これを数秒で手早く設定する機能が追加されたということだったようだけど。

しかし俺が職場で使うGoogleでiGoogleだのを使わないのは設定が面倒くさかったからではない。ゴチャゴチャといろいろ表示されるのがイヤだったからだ。

職場でGoogleを使うのは、ほとんどの場合、趣味や遊びではなく、仕事のためだ(あたりまえだ)。Webに関わるシステムの開発を仕事にしているから、調べ物の多くはとりわけWebから答えを得ることになるというだけのこと。

だが、俺は幼少のみぎりより著しく集中力に欠ける。小学校の通信簿の連絡欄に「風のように自由な」と書かれてしまい家庭訪問で母親が平謝りしたくらいに集中力がない。ない、というかすぐ逸れてしまう。

だから、調べ物をするはずで検索サイトのトップを開いて、そこにうっかりニュースの一覧なんかあると、ついクリックしてしまい、そのまま数時間も”ネットサーフィン”(という言葉もクラシックだが)してしまうことがしばしばだ。

Googleのシンプルなトップ画面は、俺をそのような危険な誘惑から遠ざけてくれるという点が実に秀逸だったのだ。


もちろん、旧来のシンプルなトップ画面を使う方法は今もあるのはわかってる。検索精度も相変わらず高い。地図もブログ検索も非常に便利だ。メールも愛用している。その他機能は・・・ちょっと試してみた限り、愛用する気にはならないが、すごいなあ、とは思う。

けど、それでも、やはり、機能が増えるに従い、「えー?これはぜんぜんありがたくねえよ」と思うことは増え続けているのは確かだ。ありがたいものとの比率はともかく。


それはそう、当然だ。多機能化して要件が複雑・詳細化すれば、個々人の要件とは一致しない部分が増えるのは、果物が好きな人全員がバナナを好きなわけではない、というのと同じように自明だからだ。


経済系の雑誌などでは、しばしばGoogleの”支配力”というものはもはや絶対の領域にあるように語られている。断言を避けても、あるいは断言をもって、もう覆ることはないだろうという見通しが語られる。

もちろん、そういう場合、マイクロソフトがかつてそう言われていながら、現実にはGoogleに駆逐されようとしているということも付記されたりする。でもGoogleこそが最後の支配者だろうと。


・・・俺は、そうは思わない。1000年近く前には常識となっていた、盛者必衰の理というやつは、ここ10数年で急に覆ったりはしない。Googleが絶対に負けないと思えるのはGoogleの土俵でものを考えるからだ。そうでなくなれば、その力は絶対じゃないし、その土俵で負けることだって無いとも言えない。これは単に0%じゃないという意味ではなく。

もっとも、俺には、同じインターネットを土俵に仕事をしていながら、Googleの平社員になれる才能すらないようだから(応募したことなどないが、いつだか募集要項を見たことがある。完全にアウツだった)、その「Googleを駆逐する新しい何か」パラダイムなりテクノロジーなりカルチャーなり、そういうものはまったく見当がつかないし考えたくもない。

でも、しばらく前からちらちら見かけて、最近ますます増えてる気がする「Googleは絶対」という見方は、受け入れられないなあ。


まあ、俺が受け入れないからと言って、何に影響があるわけでもないが・・・・。

2010年8月11日水曜日

盆休みなので

駅前の立呑屋が空いてた。
ので、ロンリィに一杯だけ飲んでく。

豚ナンコツとシロ、カシラが好きだ。

しかしついがっついて食ってしまう。空気中の二酸化炭素分子を探すような佇まいで飲めばいいと思うのだが、なかなかせっかちになってしまう。

2010年8月10日火曜日

ニラソバの極意

あっつい日が続き疲れ気味なので、ラーメンでも食うことに。

職場近くの麻布ラーメンで、気になっていたニラソバをオーダー。

一人なので厨房前のカウンター席で待っていると、他店舗から移動してきた?らしい職人が他の職人と話していた。

そのうち、ニラの炒め方の話になり、古い方の職人が、あまり炒め過ぎないようにと指示を出す。

ニラレバではもっと炒めてよいが、ニラそばはラーメンの余熱で火が入るので、それより軽くしないと食感が悪くなるとか。スープの濃さにも注文をつけていた。

なるほど、出てきたニラそばは、人束くらい入ってんじゃねえかというたっぷりのニラがのっていたが、香ばしいのにシャキシャキとしてうまかった。それでいて、玉ねぎは十分炒めてあり甘い。

へえ、ラーメン屋といっても結構、研究してるんだなあと、妙な感心をした。


食後、暑いのでコンビニであずきバーを買ってさらに食う。


合計で1000円を超える昼食は俺としては非常にハイコストだ。

でもうまかったし栄養もとったからいいや、と思っていたら、食いすぎて貧血になって気持ち悪い・・・うえええ。