2010年8月12日木曜日

Googleだって永劫不滅なわけじゃないだろう

最近、ちょっとGoogleがイヤな感じになってきた。

昨日だったか、職場のPCでGoogleのトップ画面を開いたら、わけのわからんラジオボタン(つまり、全部が嫌いでもどれか1つを選ばなくてはいけない選択肢)と「いますぐ使い始める」しかサブミットボタンのないフォームが表示され、しかたなくボタンを押したら、かってにトップページがカスタマイズされてニュースやらなにやらが出てくるようになってしまった。

つまり、iGoogleであり、これを数秒で手早く設定する機能が追加されたということだったようだけど。

しかし俺が職場で使うGoogleでiGoogleだのを使わないのは設定が面倒くさかったからではない。ゴチャゴチャといろいろ表示されるのがイヤだったからだ。

職場でGoogleを使うのは、ほとんどの場合、趣味や遊びではなく、仕事のためだ(あたりまえだ)。Webに関わるシステムの開発を仕事にしているから、調べ物の多くはとりわけWebから答えを得ることになるというだけのこと。

だが、俺は幼少のみぎりより著しく集中力に欠ける。小学校の通信簿の連絡欄に「風のように自由な」と書かれてしまい家庭訪問で母親が平謝りしたくらいに集中力がない。ない、というかすぐ逸れてしまう。

だから、調べ物をするはずで検索サイトのトップを開いて、そこにうっかりニュースの一覧なんかあると、ついクリックしてしまい、そのまま数時間も”ネットサーフィン”(という言葉もクラシックだが)してしまうことがしばしばだ。

Googleのシンプルなトップ画面は、俺をそのような危険な誘惑から遠ざけてくれるという点が実に秀逸だったのだ。


もちろん、旧来のシンプルなトップ画面を使う方法は今もあるのはわかってる。検索精度も相変わらず高い。地図もブログ検索も非常に便利だ。メールも愛用している。その他機能は・・・ちょっと試してみた限り、愛用する気にはならないが、すごいなあ、とは思う。

けど、それでも、やはり、機能が増えるに従い、「えー?これはぜんぜんありがたくねえよ」と思うことは増え続けているのは確かだ。ありがたいものとの比率はともかく。


それはそう、当然だ。多機能化して要件が複雑・詳細化すれば、個々人の要件とは一致しない部分が増えるのは、果物が好きな人全員がバナナを好きなわけではない、というのと同じように自明だからだ。


経済系の雑誌などでは、しばしばGoogleの”支配力”というものはもはや絶対の領域にあるように語られている。断言を避けても、あるいは断言をもって、もう覆ることはないだろうという見通しが語られる。

もちろん、そういう場合、マイクロソフトがかつてそう言われていながら、現実にはGoogleに駆逐されようとしているということも付記されたりする。でもGoogleこそが最後の支配者だろうと。


・・・俺は、そうは思わない。1000年近く前には常識となっていた、盛者必衰の理というやつは、ここ10数年で急に覆ったりはしない。Googleが絶対に負けないと思えるのはGoogleの土俵でものを考えるからだ。そうでなくなれば、その力は絶対じゃないし、その土俵で負けることだって無いとも言えない。これは単に0%じゃないという意味ではなく。

もっとも、俺には、同じインターネットを土俵に仕事をしていながら、Googleの平社員になれる才能すらないようだから(応募したことなどないが、いつだか募集要項を見たことがある。完全にアウツだった)、その「Googleを駆逐する新しい何か」パラダイムなりテクノロジーなりカルチャーなり、そういうものはまったく見当がつかないし考えたくもない。

でも、しばらく前からちらちら見かけて、最近ますます増えてる気がする「Googleは絶対」という見方は、受け入れられないなあ。


まあ、俺が受け入れないからと言って、何に影響があるわけでもないが・・・・。

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