2009年4月27日月曜日

”アルジャーノン”ネタ 差別という単語に悪意の漢字は入ってないけど

先に触れた「アルジャーノンに花束を」の中で、天才状態の主人公が自分のことを振り返り、(過去の自分のような者を、)精神遅滞とか白痴とか言ってはいけないらしく「特殊」と言わねばならないらしいが、そんな言葉の置き換えは本質的に何も解決しておらず、いずれ「特殊」という言葉がある特定の人々を指すものとして認知されれば「特殊」は差別用語になりまた別の言葉が考えられるのだろう、というようなことを言う場面があったはずだが、

今は「特殊学級」は差別用語で、「特別支援学級」と呼ぶらしいじゃないか。

”アルジャーノン”は50年前に書かれた小説だが、まったく予想通りの現状というのは、相変わらずなわけだ。

特殊学級は、そこにいる子どもが特殊な感じで、特別支援学級は学級が特別だということで差別的でないということらしいが、特別な支援が必要な人間が特殊であることは間違いない。

例えば、発達障害の原因としてよく知られるダウン症の発生率は1/800だとかで、こういう低い確率に当たった者は、一般的とは言い難い状況にいるのだから特殊と言うことに語弊はないはずだ。

ただ、ある部分に特殊な側面があるからと言って、それが即ち何かの権利を制限したり、個人の尊厳やら価値やらを貶めるものではない、ということが肝要なのであって、特殊であること自体の否定は、結局、論理的な矛盾を抱えるために説得力に欠け、説得力のない論拠で平等を説けば、周囲の人間の根っこに生じる差別意識の解消は望めない。

特殊であることの否定こそが、不当な差別意識、被差別意識の解消を阻んでいるのではないか。


もっとも、こういう問題は、特に親の心情など、論理で割り切るのが必ずしも最適かは疑問なところもあるのだろうが、最終的には、なるようにならないと仕方ない。

余計な擁護、無理な美化を無くさないと、不当な差別、安易な侮蔑も無くなりはしないし、本当の美点も見えては来ないのではないか。

そういう気がする。

まあ、所詮は部外者の屁理屈なのかも知れない。

しかし、痛みに煩悶している当事者の判断がいつも最善とは限らない、ともまた思う。

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