2010年8月28日土曜日

夏の贈り物

ガタン、とひとつ息をつくような揺れにふと顔を上げると、列車が目的地に到着したことをスクリーンが告げていた。

首都圏の通勤路線を走るこの列車は数年前に導入された最新型で、各車両に10個ほどあるドアそれぞれの上部に2つずつの高精細液晶スクリーンを備えていた。片方のスクリーンには到着する駅の名前やその先の駅までの予定時間などが適切なタイミングでアニメーション表示されており、もう一方のスクリーンは広告の動画を延々と映し出している。

自分が子供の頃の電車の車内には、デジタルな制御を感じさせるものは何一つ存在していなかったと思う。そもそも、少なくとも自分の周囲では、デジタルという言葉は液晶で時間を表示する腕時計の代名詞でしかなかった。電車の中にデジタルな存在を感じた最初の記憶は、小学校も終わる頃の夏休みに帰省で乗った"100系"の新幹線にデジタル表示の速度計があったぐらいだが、それとて「電光掲示板」と言った方が適切であろう、当時は興奮して眺めていたが今となっては原始的なものだった。

こういった電子機器の発展というものは、日進月歩などという月並みな表現では収まりきらないほどの勢いで進歩している。それでも、未だに列車は停止する時には大きく揺れて乗客を揺さぶるのだという事実に、質量と慣性を機械的に制御するという物理的な問題が、液晶パネルに情報を表示するという一見して高度で新しく見える技術以上に難しいものなのかも知れないと思う。

いや、しかしそれは、単に表面的な錯覚なのだろう。列車の揺れは、車両自体の機械的・電気的な制御技術の発展に加え、線路の構造自体の改良も加え、昔よりも速度を増しているにも関わらず格段に抑えられているはずだ。それはただ、結果としては程度の問題として体感されるため、漫然と乗ってその成果だけを無自覚に受け取る乗客にはわかりにくいというだけだろう。

同じように、簡単に目覚しく発展し、どんなことでも出来るかのように思える情報処理の世界も、ひとたびその技術でサービスを提供する側に身をおけば、これが迂遠な努力で少しずつ問題を解決する地味な作業の積み重ねであるということに気づくのだろう。

ふと、そんな思考が過ったのは一瞬のことだ。手元に開いていた「Webを支える技術 -HTTP、URI、HTML、そしてREST」を閉じて、席を立った。

エアコンプレッサの軽い音とともにドアが開き、昼前のホームへ降りる。

異なる温度と密度に支配された空間へと踏み出す。この不連続な変化は、ある意味でデジタルだ。

巨大な蓄熱器と化した高層ビル群に囲まれた都心の空気は、熱く、乾いている。熱いというのは文字通りで、これはひょっとして体温よりも高いのではないかと錯覚する。いや、錯覚ではない可能性が大きい。
しかし乾いているというのは比喩で、実際にはからりと気持ちいいようなものでもなく、しかし田舎の夏のような、樹々や青草や土を感じさせる密度もまたないという程度の意味だ。

蝉時雨ならぬいつも通りの騒音、つまり主に車両の走行音とビル風の音、場違いで空々しい長閑さを振りまく信号機のメロディなどの中、立体的な駅の改札を抜けて地上へと階段を下りると、アスファルトとコンクリートの照り返しがまぶしく、目を細めながら暑さに融けそうな体を引きずるように歩けば、無駄に外壁を鏡面仕上げにしているビルの前で太陽光線が倍量になり、きっと熱力学の計算どおりなのであろう輻射熱によって、きっと赤道直下でもそうは味わえないであろう暑さを体感できる。


暑い。


そう、今年の夏はとりわけ暑い。地球上の大気に二酸化炭素が増えたせい、ではないと思う。そういう問題以前に、端的に暑い日が続いている。早い話がこの夏はよく晴れているのだ。首都圏で空気を温めているのは大気中の二酸化炭素よりも地上の構造物だろう。

しかし、理由がどうであろうとなかろうと、暑いという事実は変わらない。理由がわかっても、それで納得して暑さに耐えられるようになるわけではないので、この場合は暑い理由が地球規模の大気環境の変化にあるか、局地的な地上の構造的な環境変化にあるか、それらの相互関係はどうなのか、考えるだけ無駄だ。だから考えるのはやめよう。

とにかくこの暑さで、最近は食欲まで落ちている。熱いものは食べたくないし、しかし冷たいものを食べて、汗をかいてオフィスに戻り、湿った衣服を冷房で冷やされるとこれはもう確実といっても差し支えない確率で腹に不調を来たし、その一方でオフィスの空調は大雑把で、"エコ"運転において南側窓際の自分の席は30度近く、そんな中で生活していれば日々確実に体力が削られていくのは必然であった。

しかしこんな時こそ何か栄養を摂らねばならない。ふと、駅前の串焼き屋が、ランチ営業でうなぎの蒲焼きを出していたことを思い出した。

うなぎか。

うな丼ならば食べてもいいか。夏のスタミナ源としてのウナギの位置づけはやや民間信仰じみているけども、ビタミンAがとりわけ豊富なのは確かだから、1日中液晶モニターで細かい文字を追って目を酷使している自分のようなエンジニアにはうってつけだろう。

今日の昼には、うなぎでも食べるのも悪くない。そう思いながらオフィスへの10分ほどの道のりを歩く。出社時間が11時であるため、既に朝とは言えない高さまで十分に昇り切った太陽が、ありがたくもないやる気を全開にして地上を焦がすことに専心している。

ようやく、オフィスに辿り着いた。数十人の人間と100台以上のパソコンとエアコンの、熱を巡るハルマゲドンの中で、自分は知恵熱でも出なければいいが(知恵熱は誤用するのがポイントだ)。





暑い。

夜中にタイマー設定したエアコンはとっくに切れていた。連日の熱帯夜、今日も朝から室温は30度を超えている。
すっきりと目覚めたわけではないが、これ以上布団に転がっていても暑苦しいだけなので、渋々と寝床を抜け出し、洗面所へ向かう。

蛇口を捻って、温い水で口をゆすぎ、顔を洗う。最近は水もすっかり温く、加温しないでもシャワーを浴びることが出来るくらいだ。

結局、昨日の昼にうな丼を食べることは出来なかった。オフィスに到着してしまえば仕事はいくらやってもやりきれないだけの量が、どこの食べ放題や飲み放題、乗り放題よりも気前良くやり放題できるように用意されており、その実このやり放題の権利は限界まで行使することが義務づけられている不思議な権利であるため、昼食の時間も惜しく、また、炎天下の昼下がりに駅前まで歩いていく元気も残っているはずもなく、オフィスビルの1階にあるコンビニのパンと牛乳で食事を済ませたのだった。

そのまま夜まで働き、自宅に着いたのは日付が変わる頃。寝る前にたくさん食べると眠れなくなるので、夜は食パンとチーズ、それにビール。

うなぎとは何の縁もない味気ない食生活だ。しかしやはり、もはや日常的に脳髄が茹だっており、食べるということさえ億劫なのだ。いざ、うなぎを食す。という気力もない。


朝食も、多くの場合はトーストを1枚とコーヒー程度だ。

だが、今日は違った。

茶碗に白米。それに、冗談のように行儀よく、大粒の梅干しが乗せてある。




そう言えば先日、今は紀伊にいる旧い友人から、南高梅が送られてきたのだった。

南部(みなべ)高校、あるいは南部の高田梅にその名をいただき、今や知らぬ人のない梅干しのトップブランドとなった南高梅。

大きく柔らかい果実もさることながら、その加工も絶妙だ。いただいたものは蜂蜜を使ったタイプのものでありながらけっして甘すぎず、そのままでも美味しいしご飯にも合う。

大きな粒を一口で頬張ると、軽やかな酸味と甘み、梅の香りが広がり、つつっと箸が進み飯をたいらげた。梅干しとともに食べると、飯は甘く感じる。

梅干しが疲労回復によいとされるのは、ひとつにはその食欲増進の作用にもある。梅干し自体ではなく、食欲の増進によって結果的に梅干しが持つ以上の栄養を摂れるということだ。とは言え、クエン酸を始めとした疲労回復に役立つ栄養素が梅干しには豊富に備わっているのもまた事実。甘い良薬だ。

軽く冷えた麦茶を飲み干して、今日も暑い1日が始まる。今日の昼は、うな丼を食べにも行ける気がした。



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梅干しを送ってくれた友人が、それをネタにブログに書けとわざわざメールで指示をしてきてくれやがったので、「もらった梅干しを食べたら美味かった」という話を目一杯引き延ばして書いてみた。もうちょっとネタがあったんだけど、さすがに面倒くさくなったのでこのくらいで。

…さて、梅干しを肴に酒でも飲むか。


5 件のコメント:

  1. うまそーだね。うちには届いてないけど?(H君、冗談です。)

    ところで・・
    こちらは彼よりももっと西へ行くことになりました。
    辛子蓮根でも送るよ。そしたらブログに書いて。
    詳細は後日。

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  2. 貰えるならばありがたく頂戴するぞ。
    そして食えばきっとまた、冗長で大袈裟なグルメレポート?を書くよ。
    これはどうやら趣味なんだ俺の。

    先日は残念だったな。今度近くで飲もうや。仕事帰りでも休日でも。出張とかしてない時にメールでもくれ。

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  3. ノー!?他意はないぞ、Fuくん。和歌山より西と言っても転勤ではないよな?
    ひろしより

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  4. 転勤です。テンキ~ン。

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  5. ひえ〜、テンキーン!?遠いなしかし。ひろしより

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