2016年7月21日木曜日

フェミニズム、女性視点を語る女性というのは、

とても自己否定感が強いように感じる。とか書くとアレなのだろうけど、このブログは便所の壁でチラシの裏なので思いついたことを書いておく。

http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/pink

偶然、こんな記事を見た。

この記事がとりわけどうというより、ここで引用されている記事の対談に出てくるフェミニストな女性視点の女性もそうだし、それ以外で過去にどこかの記事やテレビの討論番組で見たのもそうだし、そういった女性というのが、えらく自己卑下しているようにいつも感じるんだよな、というのを思い出したという話だ。

それもちょっと歪んだ形で、女性としての自分を卑下して、その自分を一般化された女性そのものと同一視して、つまり自分こそはもっとも典型的な女性の一人であると前提して、その上で、自分が否定されているのだから女性が否定されているという三段論法により、女性に対する否定的なものの見方というのを語っているように見える。

飛躍もあるがそれ以上に歪んでるなと思うのは、誰よりも女性を否定しているのが他ならぬ自分自身であり、そしてそれは本人の多分に(悪い意味で)男性的な思考に起因していると見えることだ。

ものの考え方に女性的、男性的な考え方というのはジェンダーによらずともあろうし、ジェンダーによってもあろう。また、それが実際の肉体的な性とズレてしまうことも稀にあろう。ただ、どうあれ差があって類型があるのは間違いないことだろう。肉体にこれだけの差異を抱えて、脳にだけは何も差がないというのはむしろ無理があるから、専門的なことは考えなくてもそう結論するのが合理的だと俺は思う。

で、先に言ったようなザ・女性の方々の語り口というのが、知ってか知らずか非常に男性的だと思うのだ。語尾とかではない。マッチョなところがだ。そして、男性のステレオタイプな下劣さをなぜかいつも振りまいている・・・要は、本当の男性の考え方というよりは、女に対して露悪的に振る舞う男であるとか、一部の女が一部の男を見て勝手に作り上げたジェンダー的な卑しい男の感性というか、そういうものを醸し出している。

つまるところ、Anytime Anywhereであらゆる意味での暴力により女をあらゆる意味で犯すことしか頭にない男というのが基本的な彼女らの男性観であり、それを勝手に理解して悟って、そして結局怒って、結果として自身がその”男”のようになっている。あるいは、逆なのかも知れない。自身にあるそういう汚い感性を「男性的なものであって、自分は男性社会と戦うためにその男性的汚ささえも呑み込める、なぜならそれが男性特有であるというのは思い込みなのだから、女性の自分にだって持ち得る汚さであり、強さなのだ」ということかも知れない。そう言葉で主張しているのを見たことがある気はしないが、総じての印象としてそう感じる。

いずれにしても、そのイメージは実は「男性」ではなくて「オス」のそれに過ぎない。男性とオスは違う。同じというなら女性もメスで良いことになり、話はそれで終わり(本当に。なぜなら動物は話などしない。)なのだが、やはり男とオスは違う。人間は動物であるけども、それは人間が他の動物とまったく同じという意味ではない。男はオスではあるが、オスが男なわけではない。
しかも、オスのそのイメージさえ、ただのステレオタイプに過ぎない。

女性のために女性を語るその口は、結局のところ思い込みと混同と転嫁と、元をただせば逃避と、そういったものを綯交ぜにした男のものでも女のものでもない、なにか不思議な化け物のそれではないか。

とは言え、なんとも言えない自縄自縛というか自作自演というか独り相撲というか・・・そう言ってしまうと狭量だと非難されるから放置されるのか、社会に「ちょうどいい」人ばかりがいるわけでもないから、実際に確かに存在はする男性社会に対するカウンターウェイトとして取りあえず置いてあるのか。それが社会だというならそうなのか、と思うしかないが、何とも無様なものだなとは思わずにいられない。



もっとも結局のところ、器の小さい人間は男女を問わずにいると思うが、それが偶然にも女性であった場合、非常に具合のいい玩具になるのが「フェミニズム」、「女性視点」、「ジェンダー」そういったものになるということなのだろう。たぶん男の場合は愛国かなんちゃってオネェとかになるパターンの対照として。

もっとも、そういった問題は議論するべきものではあるし、まっとうに議論している人も多いのだろうが・・・そういう人からすれば、ああいうのは獅子身中の虫という奴なのではないかなという気がする。


まあ、若いころはそういうのもえらく腹が立ったものだが、年をとったからか、別にどこかで誰かが勝手に目を三角にしていることはもうどうでもいい。


ただひとつ気に入らないのは、くだらない話のネタにプリキュアを引っ張って来て、「ロリを犯す」とか「レイプする」とか、そういう言い方を堂々と散りばめると「わかってる」感があるでしょう?というバカなインテリ中学生みたいな自己満足が気持ち悪いということだけだ。

2016年7月14日木曜日

ジブリ映画の意味不明さ

多くの人が賞賛する、そして俺も賞賛するジブリ映画の意味がよくわからないとか、しかし正確に言えば「俺はわかってるけどお前らはわかってない」、というような話を見かけた。

http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150226

引用の引用になってしまっててアレで、語り口がずいぶん偉そうだなとか思ったりはしてなんだか読んでると不愉快だけど、言わんとすることはわかる気がする。

ただ、いうほど多くの人が誤解?をしながらジブリ映画を見ているのだろうか?

実は明確なテーマなどないことは創作ではわりと当たり前のことなのじゃないだろうか。戦争反対だけど兵器はかっこいいという感覚はむしろ普遍的なのではないだろうか。

ナウシカを観て戦争反対、森は大切、というメッセージが重要だと思う人がどれほどいるのだろう。あれはただ単にヒロインが強くてかっこよくてかわいくて、メカもかっこよくて、人間の戦闘も大型兵器や巨大生物の戦闘もひたすらかっこいいということが重要な作品じゃないのだろうか。見た結果、「ああ、火の七日間をもたらした人間の罪は深い、腐海の生態系を理解できない人間も愚かだ、虫をも愛でる博愛でエコロジーを理解することこそが重要だ」というような感想を持つことも自由だが、それはある意味ロールシャッハテストみたいなもので、受け手の問題だろうと思う。それがふつうの捉え方ではないだろうか。

まあ、友人知人の少ない俺の考える「ふつう」よりは多くのところで人の話を集約してるソーシャルな人の意見の方がきっと的を射ているのだろうが・・・。

俺の親は、映画や本にはテーマというものがあって、それを感じ取ることが重要だと子供の頃に教えてくれた。お陰で映画を見たりすることがちょっと億劫になった。
その後、俺はなんだかんだで、一部のメッセージ性の強いものを除いて、たいがいの映画や小説にテーマなど実はないと思って観たり読んだりしている。作者は、思いついた描きたいものを描いているだけのことがほとんどなんじゃないだろうか。
ただ、商業でやりながら、テーマを問われたりするので、思いつきで何かを含ませたりすることはあるんだろうけど、根本的には思いついたものを具体化しているだけじゃないかと。

戦争と兵器についても、子どもの頃にガンダムを観ていると「戦争の話で面白がっているのは日本の子どもだけだ」と親に説教されたものだが、しかし面白いものは面白いと思ったし、それだからといって実際に戦争が起こればいいと思っているわけじゃないのに何が問題なんだ?と思ったりしたものだ。戦争放棄を掲げる政党に肩入れしていた叔父がしかし趣味では戦闘機のプラモを作っていて、親父(叔父の弟にあたる)は、「わからない」と評していたが・・・なるほど、そうか。わからないものなのか。

道具に罪があるのではなく、道具を使って罪を犯す人がいるだけだ、とか、いやしかし兵器はその出自から罪を背負っているとか、そういう理屈以前に、F22とか格好いいでしょう。海でたまたま自衛隊の艦船を見た時にも、戦艦ではなくても、民間の船とは明らかに違うその質感に痺れるものでしょう。その後で、「これが使われたら人が死ぬのだ」と思ったとしても、だからといって「格好いい」と思った気持ちまで否定しなきゃいけないことはないだろう。

きっと問題は、立派な業績を残した偉人は常に一貫した崇高な信念に基づいて行動していたのであり、そこから勘案して人間が常にテーマと目的をしっかり持って生きていないと立派でいられないと考える、そんな思い込みにあるのではないかと思った。

とすると、しばらく前からビジネス界にも蔓延る、目標管理とかキャリアパスとか、そういう考え方もそういう延長にあるわけで、くだらない思い込みだと思ってしまう。今はそういう組織から自由の身だが、上長として部下に目標設定をさせなければならなかった頃には、苦労したものだった。・・・・自分に目標がないのに他人にそれを決めさせるという役割に。

ちなみに自分はプログラマだ。立派な目標は書けてもまともに動くプログラムは書けない社員もたくさん見たが、自分にはまともな目標は書けなくても十分に動作するプログラムは書けたと思っている。目標は、あって悪いこともないが、なきゃいけないものでもない。(『納期』とかの目標は別として。)

・・・と、ここまで来て、そんな考え方が「蔓延っている」と感じていたということは、なるほどやはりジブリ映画は誤解をされていることが多いのかも知れない。他の映画も。


ところで、この投稿のきっかけとなった冒頭の記事にいきついたそのきっかけは、「変態仮面」の実写映画を観たからであった。ろくに期待せずに観たのだが、面白かった。

実は言いたかったのはそれだけだ。


2016年7月6日水曜日

人間と動物と権利

アニマル・ライツ、というものがある。動物の生存権というものだ。
これに関して極端なことを主張しているNPOなんかもあるようだが、まあそこについてはとりたててどうでもいい。

どうあれ今日、ふとしたことでそれに関する情報を目にして、動物の権利というものについて少し考えたという話だ。

家畜の待遇が具体的にどうだとかそんな話には自分はさほど興味がない。ただ、俺が口にする畜産物の衛生が確保されていればいいなと期待するくらいだ。

で、問題はこの「権利」というものについてだ。

例えば牛乳を生産するためにひたすら乳を出す装置のように扱われる牛に、そうではない生活を送る権利というものが本当にあるのか?ということ自体が俺は気になる。

いや、もっと言えば、俺がもともと考えたのは、「植物には生存権があるか」という問題だ。それを、数十年前になろうという小学生か中学生の頃に考えたということを思い出しただけだ。

自分は、自分の死というものをひどく恐れる子供だったので、他の死にも敏感だった方だと思う。だから周囲の子が戯れに昆虫を殺していた時に自分はそれをしなかったし、昆虫標本を作るために蝶を殺すのはひどく胸が傷んだ。もっとも、それは優しかったと一概に言えるものでもなく、自分の祖母の葬儀の時には恐ろしくて棺桶の窓を見ることが出来なかった(見た振りだけした)ように、単に死から逃避していたということにも思える。

ただ、その延長で、自分の好きなローストチキンが、鶏1羽の命と引き換えになっていることにある日ふと気付いた時に、愕然とした。その1羽だけじゃない。世の中の食卓のために数え切れない鶏が。牛が、豚が。無残に命を刈り取られているのだ。

そう気付いた瞬間に自分はベジタリアンになるしかないと思ったが、すぐに「じゃあ植物ならいいのだろうか」と考えた。

植物も生き物だ。同じ生き物、同じ命でありながら、動物の命は可哀想で、それを食事という生きる糧にしてさえも非道で、しかし植物なら笑顔で食べて良い?

屁理屈のようだが、これを然りと言い切るためには、動物と植物を倫理的に区別しているものが何かということに答えねばならない。植物だから、では理由にならない。

とすると、簡単に思いつくのは、植物には意識がないからだ。意識、自我がないから殺して食っても罪にならない。

罪、と言ったが、食べるという目的はさておき、殺す、ということがなぜ罪になるのか。少なくとも言えることは、それは殺す相手の権利を奪うからだ。法治国家において、他人の正当な権利を犯すことは罪だ。まあ、それを言ったら家畜も人ではないが、この場合は気持ちの問題として、他者の権利を犯すことが原則的に罪なのだと考えておく。

さて、だとすると、植物の・・・たとえばレタスの生存する権利を奪うことは確かに罪だ。だとすれば、困ったことに野菜も食えない。

しかし、実際には野菜は食っても罪とは言われないことが多い。だとすれば、つまり一般的には少なくとも、こう思われていることになる。

「植物に生存権はない」。

レタスには意識がないから、生存する権利もなく、したがって、殺しても罪はない。

なるほど、と思ったが、しかしだ。

意識がないから、というのをもう少し掘り下げる必要があると思った。

なぜなら、植物にも動物のそれとは違うがホルモンというものがあり、「もしかしたら植物にも、『痛み』のようなものが存在するかも知れない」というのが最新の研究では言われています、と当時の俺は習ったのだ。その後どういう結論になったかは知らないが、ともかく、植物が痛みを感じていたとしたら。

痛みを感じる意識があるのならば、やはり植物を殺すことは罪になる。だとすれば、やはりほうれん草を食うことは罪だ。

だが、しかし、やはり世間はそうは考えない。

なぜか。

理由は簡単で、植物は痛いと言わないからだ。痛みを感じている可能性はあるかも知れないが、少なくとも彼らは痛いと言わない。人間が外から観察する限りにおいて、植物には痛みを感じている様子が見えない。見えない以上、無いものと考える。だから植物は殺されて痛みは感じていないし、何かを感じるような「意識に類するもの」の存在も感じさせない。そういったものは殺して食ってしまってよい。

なるほど、と得心がいった。これで少なくとも野菜は食える。

が、だ。

そうだとすると少し困った問題も生じてくる。

痛い、という表現。それが嫌だという、つまり自分は生きたいという意思表示。それが出来ないものは殺して食っても罪にならない=命を奪うことが罪にならない=生きる権利はない、となればだ。

つまり、これは軽く飛躍すると、「権利というものは、権利者が権利を認知した時に生じる」という理屈ではなだろうかと。

その前提でまず、植物人間は殺してよいということになる。なるほど、たまにそういうことも報道されてる気がする。

では、重度の発達障害により生や死を認識できない人間はどうだ?苦痛を与えるのは別の罪だとして、ならば安楽死ならいいだろうということになってしまう。

では、鶏は?もちろんOKだ。殺して食って問題ない。彼らは、生と死を概念的には理解していないから、我々にわかる言葉で自らの生存権を語れない。傷をつけたらもがくのは痛みに対する反応だ。すっと殺してやればよい。

となると、だ。

つまりは家畜に対する権利の問題は、すべて安楽死で解決できるのだろうか?

そうではない。先ほどの結論からすると、権利は権利を自覚した時に生じている。

では、牛や豚に、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が自覚できているだろうか。答えは否だ。そんな自覚はない。

そもそも基本的人権というものも、人間に元から備わっているものではない。「人間には元からそんな権利が備わっているはずだ」と考える組織や国に生まれついて、その庇護下にある人間に備わっている権利だ。

だから、その庇護を離れれば消失することもあるだろう。たとえば、サバンナの真ん中で裸でライオンの群れに囲まれた状態で、この権利は意味をなさないし、この権利が意味をなさないことに意を唱える人もいないだろう。そんな状態に陥ったのがなぜかという問題は別として、そんな状態にある人間が何を言おうとそいつはライオンの餌でしかないし、そこに国連憲章も日本国憲法も何の効力も発揮しないというのは自明だ。

ライオンはそれで何の罪を背負うこともないだろう。

だとすると、逆も然りだ。

人間の社会の真ん中に放り込まれてそこで、そこで自らの権利を主張しない牛に、快適で安全な生活と寿命を全うできる暮らしの権利など最初から存在していない。

つまり、肉を食うことにも何の躊躇もいらなかったということに俺は気付いた。・・・・というのが、数十年前の回想だ。

実際のところ、牛に、あるがままの生命を全うする権利があり、それを人間が護らなけれbいけないとしたら・・・牛は滅ぼさなければならないだろう。豚も、鶏も、犬も。

彼らはそもそも人間の餌であり愛玩だ。人間を例外とした自然の「ありのまま」の存在ではない。いま生きているものを殺すかどうかはともかく、これ以上種を永らえさせることもない。幸いなことに、家畜の知能は、自らの子孫の繁栄を願うことはないだろう。だから単に種付けをやめれば平和に事は済む。

しかしそんなことはやはり不要だ。いまさら人間を例外に置いたところで何もならない。だから、人間が作り出した種が自然なら、それを作った目的の通りに使うのも自然だと考えるよりない。

ただ、最後にひとつ言えるのは、それでも人間は例外だということだ。

人間は、少なくとも人間に対しては、その本人が権利を主張しなくても権利を認める程度に優しいし、それこそが人間の例外性だ。手前勝手ではあっても、せめて人間には等しく他者の権利を認めようとする。その歪さや不条理さが、人間を人間たらしめているのだなとも思った。