2016年7月6日水曜日

人間と動物と権利

アニマル・ライツ、というものがある。動物の生存権というものだ。
これに関して極端なことを主張しているNPOなんかもあるようだが、まあそこについてはとりたててどうでもいい。

どうあれ今日、ふとしたことでそれに関する情報を目にして、動物の権利というものについて少し考えたという話だ。

家畜の待遇が具体的にどうだとかそんな話には自分はさほど興味がない。ただ、俺が口にする畜産物の衛生が確保されていればいいなと期待するくらいだ。

で、問題はこの「権利」というものについてだ。

例えば牛乳を生産するためにひたすら乳を出す装置のように扱われる牛に、そうではない生活を送る権利というものが本当にあるのか?ということ自体が俺は気になる。

いや、もっと言えば、俺がもともと考えたのは、「植物には生存権があるか」という問題だ。それを、数十年前になろうという小学生か中学生の頃に考えたということを思い出しただけだ。

自分は、自分の死というものをひどく恐れる子供だったので、他の死にも敏感だった方だと思う。だから周囲の子が戯れに昆虫を殺していた時に自分はそれをしなかったし、昆虫標本を作るために蝶を殺すのはひどく胸が傷んだ。もっとも、それは優しかったと一概に言えるものでもなく、自分の祖母の葬儀の時には恐ろしくて棺桶の窓を見ることが出来なかった(見た振りだけした)ように、単に死から逃避していたということにも思える。

ただ、その延長で、自分の好きなローストチキンが、鶏1羽の命と引き換えになっていることにある日ふと気付いた時に、愕然とした。その1羽だけじゃない。世の中の食卓のために数え切れない鶏が。牛が、豚が。無残に命を刈り取られているのだ。

そう気付いた瞬間に自分はベジタリアンになるしかないと思ったが、すぐに「じゃあ植物ならいいのだろうか」と考えた。

植物も生き物だ。同じ生き物、同じ命でありながら、動物の命は可哀想で、それを食事という生きる糧にしてさえも非道で、しかし植物なら笑顔で食べて良い?

屁理屈のようだが、これを然りと言い切るためには、動物と植物を倫理的に区別しているものが何かということに答えねばならない。植物だから、では理由にならない。

とすると、簡単に思いつくのは、植物には意識がないからだ。意識、自我がないから殺して食っても罪にならない。

罪、と言ったが、食べるという目的はさておき、殺す、ということがなぜ罪になるのか。少なくとも言えることは、それは殺す相手の権利を奪うからだ。法治国家において、他人の正当な権利を犯すことは罪だ。まあ、それを言ったら家畜も人ではないが、この場合は気持ちの問題として、他者の権利を犯すことが原則的に罪なのだと考えておく。

さて、だとすると、植物の・・・たとえばレタスの生存する権利を奪うことは確かに罪だ。だとすれば、困ったことに野菜も食えない。

しかし、実際には野菜は食っても罪とは言われないことが多い。だとすれば、つまり一般的には少なくとも、こう思われていることになる。

「植物に生存権はない」。

レタスには意識がないから、生存する権利もなく、したがって、殺しても罪はない。

なるほど、と思ったが、しかしだ。

意識がないから、というのをもう少し掘り下げる必要があると思った。

なぜなら、植物にも動物のそれとは違うがホルモンというものがあり、「もしかしたら植物にも、『痛み』のようなものが存在するかも知れない」というのが最新の研究では言われています、と当時の俺は習ったのだ。その後どういう結論になったかは知らないが、ともかく、植物が痛みを感じていたとしたら。

痛みを感じる意識があるのならば、やはり植物を殺すことは罪になる。だとすれば、やはりほうれん草を食うことは罪だ。

だが、しかし、やはり世間はそうは考えない。

なぜか。

理由は簡単で、植物は痛いと言わないからだ。痛みを感じている可能性はあるかも知れないが、少なくとも彼らは痛いと言わない。人間が外から観察する限りにおいて、植物には痛みを感じている様子が見えない。見えない以上、無いものと考える。だから植物は殺されて痛みは感じていないし、何かを感じるような「意識に類するもの」の存在も感じさせない。そういったものは殺して食ってしまってよい。

なるほど、と得心がいった。これで少なくとも野菜は食える。

が、だ。

そうだとすると少し困った問題も生じてくる。

痛い、という表現。それが嫌だという、つまり自分は生きたいという意思表示。それが出来ないものは殺して食っても罪にならない=命を奪うことが罪にならない=生きる権利はない、となればだ。

つまり、これは軽く飛躍すると、「権利というものは、権利者が権利を認知した時に生じる」という理屈ではなだろうかと。

その前提でまず、植物人間は殺してよいということになる。なるほど、たまにそういうことも報道されてる気がする。

では、重度の発達障害により生や死を認識できない人間はどうだ?苦痛を与えるのは別の罪だとして、ならば安楽死ならいいだろうということになってしまう。

では、鶏は?もちろんOKだ。殺して食って問題ない。彼らは、生と死を概念的には理解していないから、我々にわかる言葉で自らの生存権を語れない。傷をつけたらもがくのは痛みに対する反応だ。すっと殺してやればよい。

となると、だ。

つまりは家畜に対する権利の問題は、すべて安楽死で解決できるのだろうか?

そうではない。先ほどの結論からすると、権利は権利を自覚した時に生じている。

では、牛や豚に、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が自覚できているだろうか。答えは否だ。そんな自覚はない。

そもそも基本的人権というものも、人間に元から備わっているものではない。「人間には元からそんな権利が備わっているはずだ」と考える組織や国に生まれついて、その庇護下にある人間に備わっている権利だ。

だから、その庇護を離れれば消失することもあるだろう。たとえば、サバンナの真ん中で裸でライオンの群れに囲まれた状態で、この権利は意味をなさないし、この権利が意味をなさないことに意を唱える人もいないだろう。そんな状態に陥ったのがなぜかという問題は別として、そんな状態にある人間が何を言おうとそいつはライオンの餌でしかないし、そこに国連憲章も日本国憲法も何の効力も発揮しないというのは自明だ。

ライオンはそれで何の罪を背負うこともないだろう。

だとすると、逆も然りだ。

人間の社会の真ん中に放り込まれてそこで、そこで自らの権利を主張しない牛に、快適で安全な生活と寿命を全うできる暮らしの権利など最初から存在していない。

つまり、肉を食うことにも何の躊躇もいらなかったということに俺は気付いた。・・・・というのが、数十年前の回想だ。

実際のところ、牛に、あるがままの生命を全うする権利があり、それを人間が護らなけれbいけないとしたら・・・牛は滅ぼさなければならないだろう。豚も、鶏も、犬も。

彼らはそもそも人間の餌であり愛玩だ。人間を例外とした自然の「ありのまま」の存在ではない。いま生きているものを殺すかどうかはともかく、これ以上種を永らえさせることもない。幸いなことに、家畜の知能は、自らの子孫の繁栄を願うことはないだろう。だから単に種付けをやめれば平和に事は済む。

しかしそんなことはやはり不要だ。いまさら人間を例外に置いたところで何もならない。だから、人間が作り出した種が自然なら、それを作った目的の通りに使うのも自然だと考えるよりない。

ただ、最後にひとつ言えるのは、それでも人間は例外だということだ。

人間は、少なくとも人間に対しては、その本人が権利を主張しなくても権利を認める程度に優しいし、それこそが人間の例外性だ。手前勝手ではあっても、せめて人間には等しく他者の権利を認めようとする。その歪さや不条理さが、人間を人間たらしめているのだなとも思った。

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