2013年8月7日水曜日

埼玉古墳群—さきたま風土記の丘

曇天を見上げる丘に屹立する埴輪。…そもそも、これはただの丘ではない。遥か1500年以上もの昔、古墳時代の前方後円墳である。




………埼玉人にとっては語るまでもないドグマに過ぎないのだが、さいたま市は埼玉県内における一都市である。もちろん、こんなことは神奈川に生まれ東京を経て埼玉へと何となく転居した俄埼玉人である私だって最初から知っていた。

だが、埼玉はさいたま市を包含する埼玉県であるよりはるか以前に、さいたま市の外にある行田市埼玉であり、さいたまは「さいたま」である前に「さきたま」であったということは、つい最近まで知らなかった。きっと、生粋の埼玉人には常識に過ぎないのだろうが、私は恥ずかしながら埼玉県内に転入してから10年近く経ってようやくその事実を知った。

最近は休日も家で料理したりパウンドケーキなど焼いてみたり植物を育ててみたりと、ずいぶん可愛らしく過ごしてしまっていたので(娘が風邪引いたとか天気が悪かったとかもあった)、久々に少し一人で外に出ることにして、かつて通勤用に買って今は活躍していない原付二種のスクーターで、さいたま市南部よりおよそ50kmの埼玉へ、古墳時代のロマンを感じる散歩へと出かけた。

国道17号と16号という、これまた埼玉人の大動脈的なバイパス道路をつないで、一時間強。今回は原付なので国道だったが、東北高速道路を利用すればアクセスは極めてよい。いずれにしても、わりとあっけなく目的地に到着するが、ここでひとつ注意しておきたいことがある。…ぜひ、水田や畑、住宅地や商業地を通り抜けるバイパス路を走りながら「このあたりは真っ平らだなあ」という感想を持っておきたい。なにせ関東平野のど真ん中だ。ひたすら平地である。これは後ほど、重要な知見となる。

さて、さきたま古墳公園である。ちなみに「さきたま風土記の丘」は文化庁における風土記の丘事業での名称である。詳しくはWikipediaでどうぞ。

駐車場は広く、休日ながら十分な空きがあった。駐車場の近くには定食屋もあったし、駐車場内でやきそばなども売っていた。…私は途中のコンビニで買った菓子パンしか食ってないけど。


そして、駐車場のすぐ脇にある丘?のような雑木林。この時点で既に貴方は前方後円墳を目撃している。一説にはアポロン・ウィンドウとも呼ばれ、地球のエネルギーを止める鍵穴であるとされる遺跡だ。




そう、これも小型ながら前方後円墳である(愛宕山古墳)。歩きながらよく見れば


こんな感じの例の形をしていることがわかる。…先にも述べた通り、鍵穴型と言った方が早いか。このあたりは元は沼なので、自然に土地の形がこのように凸凹することはそうはない(と私は思う)。この土の盛り上がりは、古代人がいかなる方法にてかいかなる想いでか、せっせと積み上げたものなのだ。積んだ本人もまさかこの情報化社会と言われる時代にまでこれが残るとは想像していなかったろう。

…とは言え、勝手な想像なんだが、古代人、とくに作業者はそんなマジでは作ってなかったと思う。エジプト展とか見てもそう思うんだけど。一応、復活するとか輪廻するとか、そういう建前はあるんだろうが、「…とか何とかいう話らしいぜ?まあ給料出るなら丘くらい作るわな。丘陵だけに。」くらいのところが本当ではなかろうか。社会構造や生活水準は変わっても、人間の本質は長い歴史の中でもそう変わってはおらず、古代人だけ現代人に比べてどいつもこいつも糞真面目というのは考え難い。

そのまま歩いて他の古墳へと向かうことも出来るが、駐車場から一度道路に出て横断し、まずは埼玉県立さきたま史跡の博物館、略して博物館を目指す。

道路を渡って5分も歩かないが、その途中にも瓦塚古墳という前方後円墳がある。こちらは愛宕山より大きく、木も生えていないのでより前方後円ぶりがわかりやすい。

周囲を歩いて写真を撮っていたら、こんなベストショットが撮れた。



トンボを補食するアブ
ムシヒキアブ(虫挽虻)という仲間らしい。トンボも肉食で空中で蝶など他の昆虫を捉えて補食するわけだが、そのトンボを空中戦で制する、ある筋では「最強」と呼ばれている昆虫のようだ。

これも或いは、古墳時代からの変わらぬ景色なのだろう。…とか言って、昆虫の生息域は地域環境に大きく影響を受けるので、その頃にこの場所にこいつらが棲息していたかはわからないな。しかし、力で圧倒する強者は、より強い者に滅ぼされるという景色はきっと同じだ。


あ、古墳でしたな。




これがその瓦塚古墳。おー、確かに前方後円墳だ、という感じ。

さて、そこから博物館に向かう道すがら、移築された古民家が2棟ほどある。



茅葺き屋根と縁側が懐かしい。…いや、懐かしいのは気分だけ。錯覚。私はこんなスタイルの家には住んだことがない。幼少の頃住んでいたのは鉄筋コンクリート製の団地だったし、祖父母の家もいわゆる文化住宅的なものだった。

それでも、縁側に座って茶(持参したペットボトル)でも飲めば、それなりに「あー、ニッポンの夏だ」なんて感じるのだから人の郷愁など意外に軽薄なものだ。

さて、肝心の博物館。

なんと、偶然、本日から入館料が値上げされていた。…とは言え大人200円。まあ、高くはないか。

なにせ、国宝が見られるのだから。

 出よ、悠久の刻を超え、その姿を顕し給え!


金錯銘鉄剣!


国宝 金錯銘鉄剣
金錯銘鉄まで全部、金。すげえ。…まあ、それはさておき。これはここ埼玉古墳で発見された鉄剣なのだが、金で文字が書いてあり、その内容からこの持ち主がヤマト王権に仕えていたと読み取れるために、王権の勢力が関東に及んでいた証拠になったのだとか。たぶん。

字が、読めないものもあるが普通に読める漢字もあるので、ちょっと親近感が湧くな。実際のところ悠久なる刻の力は余りに強大だったようで、刃はボロボロだ。が、同館に展示してあった太刀と同様なのかなと推測すると、片刃の直刀だったのではと。反ってない日本刀スタイル。
ちなみに、写真は最初撮ってはいけないのかなと思っていたけど、係の人に聞いたら条件付きでOKでした。ガラスにカメラを押し付けたり、ガラス蓋にカメラを落とす、フラッシュをたく等の行為が問題ならしい。とは言え、横で見守られていると落ち着いて撮影できず一発撮りで「どうもー」と退散したのだけど。

博物館では常時臨時ともいろいろ体験学習イベントも開催しているようで、こじんまりしているが活発な印象だった。展示は少ないが、古墳時代なるものについてざっと学習できて国宝も拝めるので、200円の価値はあるだろう。

ここで知識と地図(パンフレット)を手に入れて先に進む。これが重要なポイントだ。この予習をしておくかどうかで、この先のコースで見るものが「ただの不自然な丘」に見えるか、「貴重な文化遺産」に見えるかが違って来る。そう、世界の見え方は主観、ひいては知識で決まるのだ。




奥の山古墳
おお!木立の中から望む墳墓丘。生命あってこそ陰をつくる樹々と、遮るもののない光を浴びながら死せる金字塔の、そのコントラストのなんと哲学的なことか。

…いや、後付けですけどね。いま考えただけの。


奥の山古墳の先にはほかにもいくつか古墳があり、その先で一度道路側に出ると前玉(さきたま)神社がある。



 「前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱」を祀っており、恋愛成就にご利益があるとかないとかだそうです(公式より)。

こちら、二子山古墳。かつての姿と同じく、濠に水を讃えている。ただ、水を入れているとどうしても古墳が浸食を受けてしまうようで、もうすぐ埋め立ててしまうらしい。水ありで見るなら今のうちだ。


濠の水まで再現済みなのが特徴の二子山古墳

続いては、埼玉古墳群の外れに位置する将軍山古墳。ここには、博物館の分室的資料展示室がある。…古墳の中に。



将軍山古墳展示室
置いてあるものや人は再現した模型なのだが、室は本物。なんだか普通の博物館と逆な感じ。館内は前方後円の「後円」部分の内部だが、コンクリートで補強されているので普通のビル内のよう。…とは言え、夏なのに、エアコンのせいとばかりは思えないほどいやにヒンヤリしていて、何よりどこか土臭いのが変なリアリティを醸し出している。


将軍山古墳と、その向こうの丸墓山古墳

将軍山古墳の上には埴輪(ほとんど円筒形)がずらっと並んでいる。どうやら、これが埴輪というものの正しい使い道らしい。写真の右手にちょんちょんと出っ張っているのがそうだ。

その後、


実は日本一大きな円墳、丸墓山古墳。

円墳に登ったり。6世紀前半というから、俺の乏しい歴史知識でも「大化の改新」の100年くらい前か、とわかる。そうか。麻呂っぽいファッションの時代だな。ちなみにここは、「のぼうの城」という映画で最近有名になった場所。登れば忍城(再現したもの)を見る事もでき、石田三成が陣を置いたとか何とか。


その円墳から隣の前方後円墳を臨む。
古墳が権威の象徴だとか言ってみても、大きいは大きいが大した大きさでもないだろう、とか思っていたが、今回実際に登ってみて考えを改めた。

この平野部において、この高さの造築物の上に立つと、随分と遠くまで見張らせる。ビルが無かった古代なら、もっと遥か遠くまで広く臨むことが出来たろうし、秩父の山並みや富士山も見える。これはちょっと凄いことだと思った。古代の人間は気軽に高速道路で遠くへ出かけるわけでもないし、Google Mapもないわけで。ここに登って初めて彼方の世界を目にした人びともいたのだろうから、その感動はさぞや、と。



古代蓮

公園内の池には行田での工事現場から偶然発見され目覚めたもので、放射性同位体による年代測定(たぶん)で1400年前のものと推測される種が発芽したものだとか。

でもどっかで見たことあるなあ、と思ったら後日、自宅のすぐ近くの公園の池に「古代蓮」という立て札が立ってた…。ま、県内なので株分けでもしたのだろう。






最後に比較的どうでもいい、「埼玉県名発祥の地」の石碑。いやどうでもよくない。埼玉県人にとっての金字塔、これがなければ入間県とか熊谷県か、あるいは大宮か浦和になってたか、さもなくば奇をてらってとまと県とかになってたかも知れない。さいたま、前玉、幸魂。この名前は重要である。たぶん。


これで本当に最後。公園の出入り口近くの目立たない場所に、やけにファンタジックなポエムを穿った石碑がある。


東方より光は射すと王の柩 現れて輝る一ふりの剣

まあ、稲荷山古墳の剣の話だね。



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