とかなんとか名前で売っていたものだったと思う。
真鍮のむくで、磨くとこのとおり美しい。磨いておくと福を呼ぶと。特に富を。
買ったのは確か…社会人になりたての頃か…?
少しは自由になる小銭が増え、しかし自由になる時間は減り、一時期、休日に用事がないので賑わった街に行ってみて、雑貨など見たり何か食べたりしてみるという、とても健全な文化が俺の中に珍しく定着しかけていた(が定着しなかった)、そんな頃だったと思う。
どこかの新しい駅ビルかなんかで、いっちょまえにビジネスマン的黒くてうすべったい、しかしオシャレな鞄でも買おうかと物色していた通りすがりにオシャレ雑貨店の店頭にこの豚が置いてあって、まあ、形が気に入ったのと、中学生の頃に技術家庭の授業で真鍮の文鎮を作り、ピカールで熱心に磨くのが意外と面白かった記憶が蘇って磨いてみたくなったため、500円くらいで買ったのだ。
その後、数度の引っ越しやら何やらあっても、他のどうでもいいオブジェとともにずっと目につく場所に置いてある。ふと気づくとすっかり錆びて曇っており、いつも視界に入っているのに稀に思い出したように、実際に突然思い出して、研磨剤で磨く。毎日見ているものの存在をある日突然思い出す、というのは文章にすると不自然だが事実としてはまったく自然だ。
真鍮は曇っているとただの薄汚れた金属だが、ちょっと磨くと本当に金のように光るから、なにか妙な達成感が感じられて面白い。大掃除や洗車の達成感と似ているが、もっとわかり易くお手軽な感じだ。
そんな程度のものであって、そもそも幸運の豚だのラッキーピッグだの言う呪い事には頓着していない。
俺は子供の頃から、血液型占いも星座占いも鼻毛の先ほども信じてはいないし(もっとも、最近はそれは公言しない)、紙に願いを書いて吊るしたら叶うとか、石を袋に入れてもってたら幸せになるとか、紐が切れたら願いが叶うとか、そんな類いのものは足の小指の割れた角っちょほどにも信じてはいない。
しかし一方で、この豚はかれこれ、10年近く俺の住まいに鎮座し、年に数回程度磨かれて来たのだ。これを磨くときに、これを買ったときのことを必然的に思い出すのは事実だ。
10年そこら置いてある小物は他にもいくらでもあるが、この真鍮の豚は、曇りきって埃っぽく煤けた金属が見る間に鏡面のような輝きを取り戻す様が時間を巻き戻すようだから、尚更に記憶の遡行作用が顕著なのだろうか。
とは言え別に、実は別れた彼女と買いに行ったとか、そんな切なく愛しく甘酸っぱい思い出があるわけでもない。
ただ、あの時の俺について思い出せるのは、まず給料が今よりだいぶ安かったということだ。
今はそれよりはだいぶ貰っているし、仕事の内容自体も面白い。家庭を見れば、どちらも可愛い妻もいりゃ子どももいる。そう、何もかもが最高というわけじゃないんだろうが、このご時世にボチボチ、悪くない暮らしをしているなという実感はある。
俺は将来の計画を思い描く習慣がほとんどないから、予想したより良い、とか悪い、とかはない。
ただ、現状を見て、少なくとも悪くはなさそうだ、という感想だ。
そう振り返れば、豚を磨いてピカピカにしながら、これはもしかして幸運の豚のお陰かな…
なんてことはビタイチ思わない。ああ、思わないね。
豚を買った後に、仕事の面だけ見たって、二度の転職は二度とも円満とは言えず、キャリアアップだの何だのカッチョいい話ではなく、状況と感情に流されつつも、まあ、それなりの研鑽を重ねて今に至っているつもりだ。今だってけっして安定しているとは思っちゃいない。ほどほどに必死こいて何とか対処している。
俺には幸運の豚などツイてないし、ずば抜けた才気があるわけでもない。先祖の資産が俺にまわって来るなどということは1円も期待してねえし、今に至るまで有力な人脈の1つもないし作る気も活かす気もない。
己の無知と無能と不心得を自覚し、ただただ日々の精進、それこそが、俺のやり方だ…。
…なんてローンウルフでダンディな自分に酔いつつも、実はまた風邪ひいて今週は勝手ブロンズウィークで、二日だけ会社に行っても「あー、俺は脳がウイルスにやられているからそんな小難しい質問には答えられない」とかばかり言ってるあたり、俺の「常に何も極められないイマイチさ」は筋金入りだぜ、と自嘲し、またそんなところを自嘲する自分に酔う。
なに?短く言えば、ナルシストなんだろうとな?
HAHAHA!んなこたとっくに気づいているさ!
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