2010年5月21日金曜日

俺の幼年期の終りは

大人になってから本を読んで、こんなふうに思うことがある。

”ああ、もっと若い頃にこの本に出会っていれば、俺の人生はもっと違ったものになったか知れないのに”

…そう大仰なものではなくても、ふと。俺なんかいまちょうど幼い子供がいるから、子供には本を読ませよう、と思ったり。


で、ひとまずそれは置いておき、いま通勤電車内で読んでいるのがSF小説の金字塔、アーサー・C・クラークの「幼年期の終り」だ。




もはや50年も前に書かれたものだが、実に面白い。

科学と平和による統治をもたらした穏やかにして異形の”オーバーロード”の正体は実は…というどんでん返しは、今や新鮮とは言えないかも知れないが、かといって陳腐ではない。

それに、やはり、そんなSF設定を舞台装置として描かれる人間そのものの描写が良い。

また、本編の登場人物がまったく登場しない短いプロローグが、それだけでも短編として通用しそうなほどに物語として十分成り立っていることにも驚く。

…とまあ、とにかく手放しで褒めちぎってみたが、実際のところ面白いのだ。

これを若い頃に読んだからと言って、俺が突然に宇宙を目指すということはないにしても、こんな面白い話があるなら読んでおけば良かったとくらいは思う。

せめて高校生くらいの頃にこういった素晴らしい小説に出会っていれば、部活の後にダラダラと、愚にもつかない下ネタや実る見込みも実らせる熱意もない恋話や、わかってもいないしわかろうともしていない政治論争をしていたような時間を、もっと有意義に過ごせたのではないかと、そんなことを思ったりするわけだ。


が。実際のところ。

そんなことはない。まったく無い。

…思い出すに、俺は確かにこれとまったく同じ本を、高校生の時に図書室で読んでいた。TMネットワークのアルバムのタイトルにあったから、というくらいの理由でだ。(TMネットワーク、俺は熱心なファンということはなかったが、当時(の少し前?)、シティーハンターやバンパイアハンターD、「逆襲のシャア」などのテーマソングがヒットしており、アニメイトな少年たちにはそれなりに人気だったと思う。)

で、しかしその時、上帝と書いて「オーバーロード」なる呼称に中二的憧れを感じたりしたものの、全体としてはごちゃごちゃした話で退屈という印象も否めず、したがって、そのまま俺が読書大好き青年になるということも無かった。


つまるところ、今読んで面白い(役立つ、興味深いという意味も込め)とか感じるのは、今そう感じてるのであって、過去の自分はたぶん同じようには感じないのだ。当たり前と言えば当たり前だが。



これはきっと当たり前のことで、本だけでなくおよそ何にでも当てはまることなんだと思う。

例えば今何かの趣味を初めて面白く思っても、それを10年前からやれていれば良かった…わけではない。いま、勉強不足が悔やまれても、20年前にもっと勉強すれば良かったわけではない。

自分の過去に戻れるならば今度はきっと、と思っても、それは今の記憶と決意があるならで、そういうものがあるならそれは過去ではない。

つまるところ、自分では後悔してみても、過去の自分というのは原則的に常に全力なのだ。余力があったと思うのは妄想。受験勉強もアルバイトも何もかも、やらなかったんではなくて出来なかった。時間が無かったか、お金が無かったか、意思が無かったか。

きっと何遍と人生を繰り返すことが出来たとしても、俺の到達点は、俺が俺である以上は変わらないだろう。

と、そんなことを、この本を読んでいて再認識した、というのが今日の日記だ。申し訳ないがオチはない。


…ま、俺自身はこの考えは、寂しげであるが実は非常にポジティブで気に入っている。

2 件のコメント:

  1. ところで、一眼レフ用のバッグは何を買ったのだ?
    革製だな。

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  2. あー。ある意味な…。

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