2016年7月21日木曜日

フェミニズム、女性視点を語る女性というのは、

とても自己否定感が強いように感じる。とか書くとアレなのだろうけど、このブログは便所の壁でチラシの裏なので思いついたことを書いておく。

http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/pink

偶然、こんな記事を見た。

この記事がとりわけどうというより、ここで引用されている記事の対談に出てくるフェミニストな女性視点の女性もそうだし、それ以外で過去にどこかの記事やテレビの討論番組で見たのもそうだし、そういった女性というのが、えらく自己卑下しているようにいつも感じるんだよな、というのを思い出したという話だ。

それもちょっと歪んだ形で、女性としての自分を卑下して、その自分を一般化された女性そのものと同一視して、つまり自分こそはもっとも典型的な女性の一人であると前提して、その上で、自分が否定されているのだから女性が否定されているという三段論法により、女性に対する否定的なものの見方というのを語っているように見える。

飛躍もあるがそれ以上に歪んでるなと思うのは、誰よりも女性を否定しているのが他ならぬ自分自身であり、そしてそれは本人の多分に(悪い意味で)男性的な思考に起因していると見えることだ。

ものの考え方に女性的、男性的な考え方というのはジェンダーによらずともあろうし、ジェンダーによってもあろう。また、それが実際の肉体的な性とズレてしまうことも稀にあろう。ただ、どうあれ差があって類型があるのは間違いないことだろう。肉体にこれだけの差異を抱えて、脳にだけは何も差がないというのはむしろ無理があるから、専門的なことは考えなくてもそう結論するのが合理的だと俺は思う。

で、先に言ったようなザ・女性の方々の語り口というのが、知ってか知らずか非常に男性的だと思うのだ。語尾とかではない。マッチョなところがだ。そして、男性のステレオタイプな下劣さをなぜかいつも振りまいている・・・要は、本当の男性の考え方というよりは、女に対して露悪的に振る舞う男であるとか、一部の女が一部の男を見て勝手に作り上げたジェンダー的な卑しい男の感性というか、そういうものを醸し出している。

つまるところ、Anytime Anywhereであらゆる意味での暴力により女をあらゆる意味で犯すことしか頭にない男というのが基本的な彼女らの男性観であり、それを勝手に理解して悟って、そして結局怒って、結果として自身がその”男”のようになっている。あるいは、逆なのかも知れない。自身にあるそういう汚い感性を「男性的なものであって、自分は男性社会と戦うためにその男性的汚ささえも呑み込める、なぜならそれが男性特有であるというのは思い込みなのだから、女性の自分にだって持ち得る汚さであり、強さなのだ」ということかも知れない。そう言葉で主張しているのを見たことがある気はしないが、総じての印象としてそう感じる。

いずれにしても、そのイメージは実は「男性」ではなくて「オス」のそれに過ぎない。男性とオスは違う。同じというなら女性もメスで良いことになり、話はそれで終わり(本当に。なぜなら動物は話などしない。)なのだが、やはり男とオスは違う。人間は動物であるけども、それは人間が他の動物とまったく同じという意味ではない。男はオスではあるが、オスが男なわけではない。
しかも、オスのそのイメージさえ、ただのステレオタイプに過ぎない。

女性のために女性を語るその口は、結局のところ思い込みと混同と転嫁と、元をただせば逃避と、そういったものを綯交ぜにした男のものでも女のものでもない、なにか不思議な化け物のそれではないか。

とは言え、なんとも言えない自縄自縛というか自作自演というか独り相撲というか・・・そう言ってしまうと狭量だと非難されるから放置されるのか、社会に「ちょうどいい」人ばかりがいるわけでもないから、実際に確かに存在はする男性社会に対するカウンターウェイトとして取りあえず置いてあるのか。それが社会だというならそうなのか、と思うしかないが、何とも無様なものだなとは思わずにいられない。



もっとも結局のところ、器の小さい人間は男女を問わずにいると思うが、それが偶然にも女性であった場合、非常に具合のいい玩具になるのが「フェミニズム」、「女性視点」、「ジェンダー」そういったものになるということなのだろう。たぶん男の場合は愛国かなんちゃってオネェとかになるパターンの対照として。

もっとも、そういった問題は議論するべきものではあるし、まっとうに議論している人も多いのだろうが・・・そういう人からすれば、ああいうのは獅子身中の虫という奴なのではないかなという気がする。


まあ、若いころはそういうのもえらく腹が立ったものだが、年をとったからか、別にどこかで誰かが勝手に目を三角にしていることはもうどうでもいい。


ただひとつ気に入らないのは、くだらない話のネタにプリキュアを引っ張って来て、「ロリを犯す」とか「レイプする」とか、そういう言い方を堂々と散りばめると「わかってる」感があるでしょう?というバカなインテリ中学生みたいな自己満足が気持ち悪いということだけだ。

2016年7月14日木曜日

ジブリ映画の意味不明さ

多くの人が賞賛する、そして俺も賞賛するジブリ映画の意味がよくわからないとか、しかし正確に言えば「俺はわかってるけどお前らはわかってない」、というような話を見かけた。

http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150226

引用の引用になってしまっててアレで、語り口がずいぶん偉そうだなとか思ったりはしてなんだか読んでると不愉快だけど、言わんとすることはわかる気がする。

ただ、いうほど多くの人が誤解?をしながらジブリ映画を見ているのだろうか?

実は明確なテーマなどないことは創作ではわりと当たり前のことなのじゃないだろうか。戦争反対だけど兵器はかっこいいという感覚はむしろ普遍的なのではないだろうか。

ナウシカを観て戦争反対、森は大切、というメッセージが重要だと思う人がどれほどいるのだろう。あれはただ単にヒロインが強くてかっこよくてかわいくて、メカもかっこよくて、人間の戦闘も大型兵器や巨大生物の戦闘もひたすらかっこいいということが重要な作品じゃないのだろうか。見た結果、「ああ、火の七日間をもたらした人間の罪は深い、腐海の生態系を理解できない人間も愚かだ、虫をも愛でる博愛でエコロジーを理解することこそが重要だ」というような感想を持つことも自由だが、それはある意味ロールシャッハテストみたいなもので、受け手の問題だろうと思う。それがふつうの捉え方ではないだろうか。

まあ、友人知人の少ない俺の考える「ふつう」よりは多くのところで人の話を集約してるソーシャルな人の意見の方がきっと的を射ているのだろうが・・・。

俺の親は、映画や本にはテーマというものがあって、それを感じ取ることが重要だと子供の頃に教えてくれた。お陰で映画を見たりすることがちょっと億劫になった。
その後、俺はなんだかんだで、一部のメッセージ性の強いものを除いて、たいがいの映画や小説にテーマなど実はないと思って観たり読んだりしている。作者は、思いついた描きたいものを描いているだけのことがほとんどなんじゃないだろうか。
ただ、商業でやりながら、テーマを問われたりするので、思いつきで何かを含ませたりすることはあるんだろうけど、根本的には思いついたものを具体化しているだけじゃないかと。

戦争と兵器についても、子どもの頃にガンダムを観ていると「戦争の話で面白がっているのは日本の子どもだけだ」と親に説教されたものだが、しかし面白いものは面白いと思ったし、それだからといって実際に戦争が起こればいいと思っているわけじゃないのに何が問題なんだ?と思ったりしたものだ。戦争放棄を掲げる政党に肩入れしていた叔父がしかし趣味では戦闘機のプラモを作っていて、親父(叔父の弟にあたる)は、「わからない」と評していたが・・・なるほど、そうか。わからないものなのか。

道具に罪があるのではなく、道具を使って罪を犯す人がいるだけだ、とか、いやしかし兵器はその出自から罪を背負っているとか、そういう理屈以前に、F22とか格好いいでしょう。海でたまたま自衛隊の艦船を見た時にも、戦艦ではなくても、民間の船とは明らかに違うその質感に痺れるものでしょう。その後で、「これが使われたら人が死ぬのだ」と思ったとしても、だからといって「格好いい」と思った気持ちまで否定しなきゃいけないことはないだろう。

きっと問題は、立派な業績を残した偉人は常に一貫した崇高な信念に基づいて行動していたのであり、そこから勘案して人間が常にテーマと目的をしっかり持って生きていないと立派でいられないと考える、そんな思い込みにあるのではないかと思った。

とすると、しばらく前からビジネス界にも蔓延る、目標管理とかキャリアパスとか、そういう考え方もそういう延長にあるわけで、くだらない思い込みだと思ってしまう。今はそういう組織から自由の身だが、上長として部下に目標設定をさせなければならなかった頃には、苦労したものだった。・・・・自分に目標がないのに他人にそれを決めさせるという役割に。

ちなみに自分はプログラマだ。立派な目標は書けてもまともに動くプログラムは書けない社員もたくさん見たが、自分にはまともな目標は書けなくても十分に動作するプログラムは書けたと思っている。目標は、あって悪いこともないが、なきゃいけないものでもない。(『納期』とかの目標は別として。)

・・・と、ここまで来て、そんな考え方が「蔓延っている」と感じていたということは、なるほどやはりジブリ映画は誤解をされていることが多いのかも知れない。他の映画も。


ところで、この投稿のきっかけとなった冒頭の記事にいきついたそのきっかけは、「変態仮面」の実写映画を観たからであった。ろくに期待せずに観たのだが、面白かった。

実は言いたかったのはそれだけだ。


2016年7月6日水曜日

人間と動物と権利

アニマル・ライツ、というものがある。動物の生存権というものだ。
これに関して極端なことを主張しているNPOなんかもあるようだが、まあそこについてはとりたててどうでもいい。

どうあれ今日、ふとしたことでそれに関する情報を目にして、動物の権利というものについて少し考えたという話だ。

家畜の待遇が具体的にどうだとかそんな話には自分はさほど興味がない。ただ、俺が口にする畜産物の衛生が確保されていればいいなと期待するくらいだ。

で、問題はこの「権利」というものについてだ。

例えば牛乳を生産するためにひたすら乳を出す装置のように扱われる牛に、そうではない生活を送る権利というものが本当にあるのか?ということ自体が俺は気になる。

いや、もっと言えば、俺がもともと考えたのは、「植物には生存権があるか」という問題だ。それを、数十年前になろうという小学生か中学生の頃に考えたということを思い出しただけだ。

自分は、自分の死というものをひどく恐れる子供だったので、他の死にも敏感だった方だと思う。だから周囲の子が戯れに昆虫を殺していた時に自分はそれをしなかったし、昆虫標本を作るために蝶を殺すのはひどく胸が傷んだ。もっとも、それは優しかったと一概に言えるものでもなく、自分の祖母の葬儀の時には恐ろしくて棺桶の窓を見ることが出来なかった(見た振りだけした)ように、単に死から逃避していたということにも思える。

ただ、その延長で、自分の好きなローストチキンが、鶏1羽の命と引き換えになっていることにある日ふと気付いた時に、愕然とした。その1羽だけじゃない。世の中の食卓のために数え切れない鶏が。牛が、豚が。無残に命を刈り取られているのだ。

そう気付いた瞬間に自分はベジタリアンになるしかないと思ったが、すぐに「じゃあ植物ならいいのだろうか」と考えた。

植物も生き物だ。同じ生き物、同じ命でありながら、動物の命は可哀想で、それを食事という生きる糧にしてさえも非道で、しかし植物なら笑顔で食べて良い?

屁理屈のようだが、これを然りと言い切るためには、動物と植物を倫理的に区別しているものが何かということに答えねばならない。植物だから、では理由にならない。

とすると、簡単に思いつくのは、植物には意識がないからだ。意識、自我がないから殺して食っても罪にならない。

罪、と言ったが、食べるという目的はさておき、殺す、ということがなぜ罪になるのか。少なくとも言えることは、それは殺す相手の権利を奪うからだ。法治国家において、他人の正当な権利を犯すことは罪だ。まあ、それを言ったら家畜も人ではないが、この場合は気持ちの問題として、他者の権利を犯すことが原則的に罪なのだと考えておく。

さて、だとすると、植物の・・・たとえばレタスの生存する権利を奪うことは確かに罪だ。だとすれば、困ったことに野菜も食えない。

しかし、実際には野菜は食っても罪とは言われないことが多い。だとすれば、つまり一般的には少なくとも、こう思われていることになる。

「植物に生存権はない」。

レタスには意識がないから、生存する権利もなく、したがって、殺しても罪はない。

なるほど、と思ったが、しかしだ。

意識がないから、というのをもう少し掘り下げる必要があると思った。

なぜなら、植物にも動物のそれとは違うがホルモンというものがあり、「もしかしたら植物にも、『痛み』のようなものが存在するかも知れない」というのが最新の研究では言われています、と当時の俺は習ったのだ。その後どういう結論になったかは知らないが、ともかく、植物が痛みを感じていたとしたら。

痛みを感じる意識があるのならば、やはり植物を殺すことは罪になる。だとすれば、やはりほうれん草を食うことは罪だ。

だが、しかし、やはり世間はそうは考えない。

なぜか。

理由は簡単で、植物は痛いと言わないからだ。痛みを感じている可能性はあるかも知れないが、少なくとも彼らは痛いと言わない。人間が外から観察する限りにおいて、植物には痛みを感じている様子が見えない。見えない以上、無いものと考える。だから植物は殺されて痛みは感じていないし、何かを感じるような「意識に類するもの」の存在も感じさせない。そういったものは殺して食ってしまってよい。

なるほど、と得心がいった。これで少なくとも野菜は食える。

が、だ。

そうだとすると少し困った問題も生じてくる。

痛い、という表現。それが嫌だという、つまり自分は生きたいという意思表示。それが出来ないものは殺して食っても罪にならない=命を奪うことが罪にならない=生きる権利はない、となればだ。

つまり、これは軽く飛躍すると、「権利というものは、権利者が権利を認知した時に生じる」という理屈ではなだろうかと。

その前提でまず、植物人間は殺してよいということになる。なるほど、たまにそういうことも報道されてる気がする。

では、重度の発達障害により生や死を認識できない人間はどうだ?苦痛を与えるのは別の罪だとして、ならば安楽死ならいいだろうということになってしまう。

では、鶏は?もちろんOKだ。殺して食って問題ない。彼らは、生と死を概念的には理解していないから、我々にわかる言葉で自らの生存権を語れない。傷をつけたらもがくのは痛みに対する反応だ。すっと殺してやればよい。

となると、だ。

つまりは家畜に対する権利の問題は、すべて安楽死で解決できるのだろうか?

そうではない。先ほどの結論からすると、権利は権利を自覚した時に生じている。

では、牛や豚に、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が自覚できているだろうか。答えは否だ。そんな自覚はない。

そもそも基本的人権というものも、人間に元から備わっているものではない。「人間には元からそんな権利が備わっているはずだ」と考える組織や国に生まれついて、その庇護下にある人間に備わっている権利だ。

だから、その庇護を離れれば消失することもあるだろう。たとえば、サバンナの真ん中で裸でライオンの群れに囲まれた状態で、この権利は意味をなさないし、この権利が意味をなさないことに意を唱える人もいないだろう。そんな状態に陥ったのがなぜかという問題は別として、そんな状態にある人間が何を言おうとそいつはライオンの餌でしかないし、そこに国連憲章も日本国憲法も何の効力も発揮しないというのは自明だ。

ライオンはそれで何の罪を背負うこともないだろう。

だとすると、逆も然りだ。

人間の社会の真ん中に放り込まれてそこで、そこで自らの権利を主張しない牛に、快適で安全な生活と寿命を全うできる暮らしの権利など最初から存在していない。

つまり、肉を食うことにも何の躊躇もいらなかったということに俺は気付いた。・・・・というのが、数十年前の回想だ。

実際のところ、牛に、あるがままの生命を全うする権利があり、それを人間が護らなけれbいけないとしたら・・・牛は滅ぼさなければならないだろう。豚も、鶏も、犬も。

彼らはそもそも人間の餌であり愛玩だ。人間を例外とした自然の「ありのまま」の存在ではない。いま生きているものを殺すかどうかはともかく、これ以上種を永らえさせることもない。幸いなことに、家畜の知能は、自らの子孫の繁栄を願うことはないだろう。だから単に種付けをやめれば平和に事は済む。

しかしそんなことはやはり不要だ。いまさら人間を例外に置いたところで何もならない。だから、人間が作り出した種が自然なら、それを作った目的の通りに使うのも自然だと考えるよりない。

ただ、最後にひとつ言えるのは、それでも人間は例外だということだ。

人間は、少なくとも人間に対しては、その本人が権利を主張しなくても権利を認める程度に優しいし、それこそが人間の例外性だ。手前勝手ではあっても、せめて人間には等しく他者の権利を認めようとする。その歪さや不条理さが、人間を人間たらしめているのだなとも思った。

2016年4月21日木曜日

バイクを買おうかと思っている

このブログもたいがい不平不満ばかりだけど、久々に投稿してみようと思ったのは愉快なことだ。

10年は行かないか・・・しかし5年以上、まともなバイクには乗っていない。

16歳で免許をとってからの趣味だったバイク。ツーリングが好きでいろいろ乗り継いで、社会人になってから少しだけサーキット走行もしてみたりして、大型免許とってスーパースポーツに乗って。

ただ、自分はよくバイクを転かしてしまうので、肉体以上に財布にかかるダメージがメンタル的にきつくなってきて、手放してスーパーカブ125など買ってみて。結局、事故に遭うわ盗まれるわで、それならと手に入れたのが今も乗ってる125のスクーター。

メットインが便利だとか、通勤にも使うつもりだったとかそういう理由はつけられるが、たぶん、気分を変えたかったのかも知れない。けど、やはりスクーターは俺には合ってなかったようで、二度ほど少し遠くに走ってみたが全然面白くなく、通勤にも使わなくなったので、スーパーに買い物行く専用マシンでしかなくなっていた。

それもボロくなってきてるし、「もうバイクも乗らなかな」と思って毎年自賠責も1年更新してたのが・・・。

なぜだろう、しばらく前から非常にバイクに乗りたくなってきた。

今は主に自宅で仕事をしているので、毎朝の通勤もなく、そういう意味では生活は快適だ。料理の機会が増えて、すっかり自分で作った飯で飲むのが楽しみになってしまった(主に肉と油を活かした系統の)。

余裕こいて自宅で野菜やハーブも育てており、それを薬味にしてツマミを作るのも愉快だ。

まるで定年で隠居したおっさんのようだが、それは普通はその歳にならなきゃ出来ないというだけで、(一時的かも知れないが)40歳でその時間を獲得できている今の俺はラッキーであり、普通に楽しい。ランニングに勤しんだり、たまには登山もしたり。


だが、何か。何かが足りないという気がする。刺激が何もないわけじゃない。家で作業しているだけで、仕事は十分に厳しいし、チャレンジングなことをしているつもりだ。

けど、それでも。


自宅の作業机の前には窓があり、武甲山を右手に、秩父から奥多摩へと連なる山並みが見える。うちの近所は夕方にランニングをすれば、俺が勝手に「釧路」と呼んでいる大きな調整池の向こうに赤く染まる富士山もよく見える。


登山や釣りのために電車やクルマでそのあたりに行くことは最近でもたまにはある。けど、それはそれでいいけど、そうじゃない何かがしたいと思う。


バイクというのはやはり、移動手段ではないのだと思う。乗ることそれ自体が目的なのであって、それは他の移動手段で同じ目的地に行くことでは代替できない。

で、その「バイクに乗ることそれ自体」というのが、 やはり自分は好きなんじゃないかなと。まあ、いろいろな乗り方がある。けど、いま欲しているのは、陳腐な表現だが気ままな散歩のような乗り方だ。結局、俺は「一人でウロウロ」と言うのが大好きな性分なんだと思う。


残念なことに今は使える予算も少ないのだが、幸いなことに一時期の寒い時代が嘘のように、今のバイク業界は軽量級が活気づいている。何か手頃で楽しいマシンでも手に入れようと思う今日この頃だ。



・・・・けっして「ばくおん!」の影響ではなく!いや、ほんとに!






2015年9月16日水曜日

子育てが泣けるほど楽しい

娘はもう小学1年生。

学校も楽しいようで、毎日元気に登校している。先日授業参観にも行ったが、確かに楽しそうだった。

親の俺が言うのも何だが、娘はちょっと変わってると思う。世界に一つだけの花理論みたいなきれいごとではなくて、ちょっと変わってる。いつも空想話をして、空気が読めず、いきなり踊りだしたり、ちんぷんかんぷんな発言ばかりしている。動きもフニャフニャバタバタしてどこかおかしい。昔風に言えばトットちゃん、今風に言えば軽度の発達障害の気がある。

客観的に見るとふざけてるように見えたり、ひどくだらしなく見えたり、あるいはものすごく身勝手に見えることが多い。実際、行動はその通りだから、そうだと言われても否定は難しい。

だけど本人は、むしろいつでも至って真面目で、いろいろ考えて「きちんとしよう」と思っていて、そう考えれば考えるほど、子どもならではの知識の不完全さも手伝ってちぐはぐでおかしな行動をとってしまう。

親として見れば、ちょっと心配になるところもあるにはあるが、まあ微笑ましいものだ。なにせ本人はいつも至って大真面目なのだし。多少の空回りは健気にも見えてむしろ愛おしい。

学校でも、先生はおそらくよく配慮してくれてるのだと思う。よく出来たことは誉めてくれる一方で、きちんと出来ないことについて、注意はしても必要以上に責めたり罰を与えたりはしていない。ありがたくて、頭が下がる。

友達もちゃんといるようで。



・・・そうやって、不器用ながらアレコレ一生懸命な(傍から見たらサボってだらけてるように見えることもしばしばだろうが、本人としてはだいぶ頑張ってると思う)娘と、それをサポートしてくれてる先生、違和感なく接してくれている級友を見て、安心したり嬉しく思ったりする時に、一方でふと寂しく思うことがある。

いや。正直に言って、泣きたくなるほど悲しい気持ちがこみ上げることがある。







何で、俺の時にはそうじゃなかったんだと。

何で、俺が期待に胸を膨らませて小学校に入った時には、先生は俺を教室から追い出したのかと(俺の机は一時期廊下にあった)。

毎日男子とケンカして負けて、女子にはばい菌みたいに疎まれて、なのに先生すら味方にはなってくれなかった。俺は余りにも視野が狭く、自分が疎まれていることにすら気付けなかったから、先生のことは好きで、クラスの皆は友達だと思っていて、だけどあちらはそう思ってくれてはいなかった。気付けてなかったから悲しくはなかったが、いつも違和感があったし、やはり、どこか苦しいものはあった。

唯一、隣の隣のクラスのおばさん先生(いや、お姉さんだったのかも知れない)は、廊下で会うといつも声をかけてくれたり時には頭を撫でてくれて、幼心に「何なんだ」と思っていたけど・・・後から考えてみれば、俺の待遇を憐れんでくれていたのだろう。

その後、教師には「影がある」と言われ、女子には「根暗」と言われるようになった自分の性格を、その原体験に責任転嫁する気はない。たぶん、自分には元からそういう二面性がある。多弁で楽観的な部分と、寡黙で悲観的な部分と。

だから、幼いころの俺を義務教育の場で率先してクラスから弾き出すようなことをした若い先生を、今でも恨んではいない。それが、仮に俺の上履きがボットン便所に落ちていたり算数セットが消失したり、給食に雑巾が投げ込まれたりという日常を助長していたのだとしても、恨んだりはしていない。俺はどちらにしろ、自分で活路をひらいて、それなりに十分な稼ぎも得て、こうして愛すべき娘もいるのだから、かつての自分の境遇やそれに関わる人々に、感謝はしてもよいが恨みをもつことはないし、実際そんな気持ちはないのだ。

だけどふと、エキセントリックな娘にかつての自分を重ねる時に、寂しい気持ちになることがある。

妬ましいわけではない。ただ、戻ることのないかつての時間、疎まれながら過ごしていた幼い自分が少し不憫に思えるだけだ。良かれと思ったこと、頑張ったこと、出来たと思ったことが軒並み裏目に出て罰や嘲笑の的になっている少年の姿が哀しくて切なくて、少し泣きたいような気持ちになることがあるだけだ。

・・・まあ、そんなこんなを乗り越えたおっさんだから泣きやしないけど。


教育の現場にも未だいろいろ問題はある、政治にも社会にも、闇も病もある。だけど、それでも世の中は少しずつ良くなっているんだ、と思う・・・少なくとも娘が受け入れて貰えるような背景というのは、ここ10年ほどで大分進歩したのだろうし。

そう思えば、やはりそれは嬉しいことでもある。それが実感できるのは、楽しいことだ。

2015年8月21日金曜日

話題のオリンピックロゴ、やはりパクリだと思うの話

これ。



最近仕事が忙しくて全然知らなかったのだけど、妻に「おもしろいよ」と言われてニュースを検索したら本当に面白いことになってた。

それで、まあこれがパクリだろうと大勢の人が思っているわけだし、例の佐野氏のデザインのいくつかはもう言い逃れのしようもなくパクリというか著作権侵害のはずだが、ひとつ、特に気になっている点が。

このデザインをパクリではないと擁護する人達の大方は、

「T」という文字と〇(日の丸)をデザインしたらだいたいこんな風になるのだから、似ているのは偶然と考えるのが自然

みたいに言うということが非常に気になる。


そういうのはまさにコロンブスの卵という奴じゃないのかね。だいたい、見てしまった後でなら、「Tの字と日の丸だろ?なんの捻りもない」と思うのだが、見る前には、普通に誰でもこの形を思いつくわけじゃない。だから、デザインというのは難しいのだと思うし、そういう意味でこの図形はデザインとしてある程度優れているのだと思う。

・・・もちろん、自分はまったくデザインの勉強などしたことないし、そういう仕事ではない。でも、何でも手作りが当たり前だった90年代に熱心に個人サイト・・・・というか、ホームページを作り、ロゴを作ったりしていたので、アルファベット1文字であっても、それをロゴとしてデザインするのは非常に難しいということはわかるような気がしている。自分のような凡人がやると、巷にあふれるどんなものであれ、プロが作ったロゴに比べて遥かにダサいただの文字にしかならないのだ。それでいて、趣味の個人サイトに過ぎないのだからパクろうと決めてネタを探すと、どこにでもあるように見えるようなロゴが実はみんな明らかに違う個性を持っていて、「それとなくパクる」というのが難しい。

そういうわけで、2つのことを思うわけだ。

まず一つは、既に言ったように、このロゴは図形としては結構優れているのだろうということ。好きではないし、なんか暗いなとか思うけど、Tと日の丸という単純な要素から、単純かつオリジナリティのある形にちゃんとデザインされていると思う。

そしてもうひとつは、そうだからこそ、元ネタの美術館のロゴと「偶然似ている」とは思えないというこだ。「T」で図形にしたらだいたいああなる、などと言ってる人は、じゃあ他にどれほどあの形のTのロゴを知っているんだ?本当によそで見たことあるのか?


・・・でもやっぱり一番妙なのは、右下のグレーの△だよね。

元のベルギーのロゴは、「T」ではなくて「TL」だから左上と右下に▽と△みたいになってたはずだが、オリンピックでは「L」はモチーフにはなっていないはずで、だとすると、いったいあれは何なんだと。

ただ対角の隅を丸めた背景のようなもの、というなら、それこそデザインとして意味がないっつうか、素人がよくやりがちな「何となく対称形にしてみた」というやつだろう。・・・実際、自分は仕事がウェブサイトのプログラマだが、デザイナに渡す前の仮の画面に説明用のテキトーなデザインを施す際に、よくこの「左上と右下だけ丸めた四角に文字を入れる」というのはよくやる。いつも自分でそれをやりながら、「何とも安易な・・・」と思いつつ、俺の「デザイン作業」は別に納品物を作っているのではなく、「このプログラムはHTMLにこれくらい編集の余地があるよ」とデザイン担当に伝えるためのものでしかないから、別に意図も完成度も必要ないのでまあいいか、という感じでそうしている。


そう考えてくと、やはり、「よいデザイン」なのは元になったベルギーのそれやありがちながら絶妙な配色をしたスペインのグラフィックなのであって、それらにインスパイヤされて作られたオリンピックのロゴは、著作権侵害や盗用には厳密には当たらないのかも知れないけれど、やはり少なくともコピペ、二番煎じであって、素人よりはいくらかマシというような駄作なんだなと思います(笑)。




まあ、ついでだけどトートバッグの件とかも、「写真を拾って使うくらい」というトンチキな意見もあるみたいだが、素人が撮った写真だろうと著作権は自然に発生しているのだから、勝手に使ってはいけないし、それがデザインとして利用されれば「引用」とは言えないのだから、これは違法なはずじゃないかと思う。

それを言ったら写真は全部著作権侵害だ、とか言うのもまたひどい的外れで、風景は著作物ではないから、自分以外の誰かの作ったものが写っている風景それ自体が他人の著作権を侵しているということにはならない。もちろん、誰かの著作物が風景に映り込んでいるのではなくて、誰かの直作物を映した写真であれば、それは著作権を侵している可能性がある。ただもちろん、著作者がそれを許諾していれば問題にはならない。
そういうことをちゃんと分けずに糞も味噌も一緒で「細かく言うと皆グレーなんだからいいじゃん」とか言うのは、少し知恵をつけて大人ぶった小学生とかが陥りがちな愚かな思考だと思う。




2015年8月20日木曜日

たった1日で筋肉がつく、なんてことがあるんだろうか?

夏の初めに日光白根山に登ってひどく疲れたのは前に書いたとおりだ。

その後は太ももの前側がえらい筋肉痛になった。なるほど、山道を登るのにあたり酷使されそうな場所ではある。

で、その後、以前から週に2回前後で続けているランニングで、足が痛くならない。疲れるのはまあ疲れるが、足が筋肉痛にはならないし、走ってる時にも少し軽い感じがある。

自分としては少し長めの10キロとか走っても、やはり筋肉痛は起こらないのだ。以前は確か、翌日~翌々日あたりで多少は筋肉痛があったのに。

身体ってそう簡単に鍛えられるものではないと思っていたけど、元のレベルが低いだけに、1日のハードワークでも多少筋肉増えたりするんだろうか・・・。

2015年7月18日土曜日

日光白根山を玄人コースで登ってきた

世間が夏休みで賑わう前にと、昨年登ろうとして挫折した日光白根山に登ってきました。

昨年は同行のP君が電車でさいたままで来てから車に乗せて奥日光まで行き、それから登ったので登山口ですでに13時くらい、弁当を食べてから登り始めたため、そもそもまったく時間が足りませんでした。なので今回はその反省を活かし、前日夕方に湯の湖のキャンプ場へ行き、翌日早朝(と言ってもキャンプ場の登山客で最後の出発でしたが)からアタックしました。

結論から言うと、6:50分に湯の湖のキャンプ場(スキー場)から登り始め、前白根山を経由して白根山、そこから弥陀ヶ池へと下り、さらに五色沼に出て、そこから五色山に登り直し、国境平を経由して湯元温泉街に降りる道程で17時頃に下山となりました。

天気に恵まれすぎて非常に暑かったので、500mlの水を2本では不足気味でした。ケチっていたら白根山頂あたりでクラクラしてきて、たぶん熱中症直前だったのではと思います。そこで開き直ってある程度水分をとってしまい、多少楽になりましたが、最悪の場合は沼で汲んだ水を生で飲むつもりでいました。幸い、下りかつ午後で汗をかく量が減ったためか、なんとか下山までもちましたが・・・夏山で時間も長い場合、次回からは2Lは持ってこうと思います。

あと、経過をポチポチ書いておきます。


湯元スキー場の登山口で、ゲレンデを登り切ったあたり。ここからいよいよ登山道ですが、ゲレンデとはうってかわって今度はハード過ぎる急登になります。地図で見ると等高線の密度が凄いし。ほぼずっと、手を使って登るので軍手必須です。
軍手がなくて木を掴むのを躊躇すると、それだけ体力を消耗するので後がつらいと思われます。



劇坂を抜けると尾根に出て、そこからしばらくは軽快に歩けます。写真撮ってないけど、笹とかは少なく、何かヨーロピアンでファンタジーな感じのする・・・言ってみればドラクエなんかに出てきそうな小路で、ウキウキと鼻歌で歩けます。

そんな感じでわりと楽に前白根山には到着します。



前白根からは五色沼とその向こうにそびえる「関東以北の最高峰」、白根山の偉容が伺えます。途中明らかに登って降りており、しかも白根山に見える道はまた劇坂で、ちょっと溜息が出る感じですが、「まあ、わざわざ山登りに来て坂がキツイってブー垂れるのはおかしいよな」と気を取り直して進むのみです。


五色沼の南側に向かって下っていき、改めて登る・・・というだけでも無駄感があるのに、我々はなんと道を間違え、「隠白根山」というボーナスステージというより裏面みたいなところに向かってしまいました。

途中、明らかに白根山に向かっていないことに気づき地図をチェックしていると、壮年グループの気さくなおばちゃんに道を教えていただき、完全に道を誤ったことが判明。

しかし、眼下にわりとはっきりと・・・人の声が聞こえる程度の距離で本来のルートがあったので、思い切ってそのまま道を下り、白根山へのルートに復帰しました。


視界の悪い藪に入る前に影の方向を覚えておいて、多少方向が狂っても道にぶつかる角度を選びつつ下りましたが、やはり登山道以外を歩くのはちょっとドキドキします。慎重に降ってものの10分くらいだったと思いますが、やけに長く感じました。



が、途中、石楠花の群落があったり鹿の群れがいたり、わりと楽しかったかも。石楠花は登山道わきでもわりと咲いてましたが、ここのが一番立派でした。



ルート戻ってから、一気に登って頂上。

昼飯に菓子パンとフライドチキンを食いましたが、前日に買って、酷暑のために常温になってしまったチキンはちょっと味変わってて不味かったです。・・・冷蔵庫とか山の夜とかで冷え切ったフライドチキンは、ハムやベーコンみたいで好きなんで、わざわざ持ってったのに・・・朝のうちに食っておけばよかった。




白根山の頂上は渋滞してました。
なので、看板の前でポーズを決めるのは諦め、看板だけさっと撮りました。眺めは良かったです、全方位的に山が見渡せるので。まさに重畳、重畳、という感じでした。


この後、弥陀ヶ池へ。上から見たらただの池でしたが、近くでみたらわりと綺麗でした。でも魚の気配はないので、どこか寂しい感じです。でかいヤゴはいました。ヤンマ系でしょう。


その後、尾根伝いに五色山に行くはずだったのですが、左への分岐を見落とし、間違って五色沼へ。五色沼は水は遠目にはターコイズブルーで、近くで見ると透明度が高く、なんとも綺麗ですが・・・さらに水生生物の気配が少なく、どこか死んだ水という感じです。水を汲んでも全然藻の匂いとかもしませんでしたし。

なので、綺麗は綺麗だけどやはり寂しいというかつまらないです。

その後、だいぶ疲れてきたので、P君に「立ち止まったら動けなくなる!」などと無駄にプレッシャーを与えつつ一気に五色山を登りました。

あとはずっと下りですが、国境平経由で湯元へ下る登山道は、ほぼ全編、もの凄い笹です。足元が見えないところも多いし、顔の高さを笹の葉が両側から塞いでるので、ずっと空手の構えのように左手を顔の斜め前に構え、右手はポールで足元を確認しつつで進みます。

また、泥の登山道が薄いで抉れてクレバス状になっており、身の丈ほどの段差になっているところも多いので、滑りと転倒に注意しながら歩くので・・・精神的に疲れます。

泥なので転倒しても岩ゾーンより怪我はしにくいし、クレバス上の溝なので滑落とかもしそうにないのですが・・・疲れるというか、「たまらんですなこの笹は!」という感じ。


後半はかなり脚も疲れたけど、装備もよくなったためか、わりと「疲れたー」と言いつつも歩ける感じでした。

前まではいていたメレルのウィルダネスローカットは、元々はタウン用で使っていたもので、だいぶへたれており、インソールを取り出してみたらなんと拇指のあたりがすでに摩耗により貫通しており、インソールなんてありません状態だったので・・・どうも足が痛くなるとは思っていたのですが。今回はAmazonでやすくなってたKEENのミッドカットの靴に、傷んできて買い替えたランニングシューズ(アディダスのアディゼロ)から移植したインソールを入れていたので、足の裏はだいぶ楽だったなあ。と。

加えて、Amazonで同時に980円くらいのキャプテンスタッグのT型ポールを買っていたのですが、これが予想に反してだいぶ役立ちました。

登りでは段差で思い切り体重をかけて、下りではブレーキとして。おかげで脚がなんとかもった感じです。


下山してから奥日光高原ホテルの風呂に入り、ビールを買い、またキャンプ場に戻って1泊してから帰るという日程にしてあったので、登山後の余韻を楽しむゆとりがあって良かったです。

なぜか2日目はサルが凄かったです。キャンプ場の端っこの方に場所をとっていたため、我々の点とのすぐ横の木立に数十匹はいるかという群れが来てこちらの様子を伺ってました。
風呂に行ってる間にテントを荒らされても嫌なので、まず食料は蓋つきの箱にしまいましたが、さらにサルにも戦いを挑むことにしました。

・・・まあ、群れに少し近づいてしばらく睨み合った後、ずんずんと距離を詰めて「うおらあ!」と喝を入れたら山に帰っていったというだけですが・・・。自分の中での対サル軍団の戦略としては、もちろん戦わずして勝たねばならないのですが、心の裡に、「この中のどれかのサルが最初に俺に噛みついてきたら、とにかく掴んで振り回し、地面に思い切り叩きつけ、頭を踏み潰してやる」というイメージを満タンにしておくのがポイントです。そういうのは伝わるものだと思います。

サルは怒ると怖いとよく言いますが、無傷で勝とうと思うからいけないのであって、何針か縫う怪我をする代わりに殺す、というのは出来ると思っています。出来ると思う、というところがポイントなのであって、やりたいとは思ってませんよ勿論。

実際、翌日に駐車場でサルが出た際、「まあ!」と言って携帯で写真を撮りだした温泉客の奥様は、サルにどんどん距離を詰められてしまい、揚句に威嚇されて慌てて旅館に逃げ込んでました。旅館があればいいですが、無防備な場所で群れに舐められたら厄介ですからね。最初の気合いが肝心かと思います。

・・・まあいいか。


結局、サルにテントを荒らされることもなく。旅館で温泉入ったついでに買ったビールのあとは山の夜でほどよく冷えたワインなぞ飲みつつですね。オイルサーディンは美味かったな。ソーセージは多すぎたが。
・・・静かな夜、心地よい疲れ、酔いもまわって、天の川も見えて、「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」と指差してみたり、流れ星を数えて。

隣にいるのがむさい男じゃなくて可愛い女子だったら、「ちょっと冷えるね」とか言ってロマンティックが止まらなくなってしまいそうな良い夜でした。・・・ま、妻子ある身ですから、万が一にも間違いや誤解のないよう、敢てむさ苦しいパーティで行ってるわけなので、別にいいんですけどね。むさくて。


翌日はのんびり片付け。テントも寝袋もしっかり乾かしてしまって、昼前に帰路へ。




途中、ふと「竜頭の滝」によりました。小学校の修学旅行以来だな・・・と思ってたら本当に修学旅行の小学生がやってきました。賑やかというか・・・・6年生にもなると、わりともうスレてますよね。特に女子はメンタルの成熟が早いので、なんか「滝くらいで騒いでらんないわ」系で澄ましてベンチに座ってたり。俺の娘も5年もしたらこんなつまらん人間になってしまうのかなと、少し複雑な気持ちになったりしました・・・けど、ならないかな。今もだいぶクラスで浮いてるようだし。

・・・なお、私はロリコンを自称してますし、本当にそうだと思いますが、JCに萌える変態ではないですのでご安心ください(何が?)。私が尊いと考えているのは劣情の対象としての少女ではなくですね、生物的に純粋なものとしての少女性であり・・・いえ、まあ、この話は止めておきましょう。長くなるので。続けると遺伝的多様性と有性生殖、社会の生起の話まで無駄に無駄に広がります。



ところで、奥日光への行き来でたいがい使うことになる「いろは坂」は、上りの方は2車線ですが下りは2車線幅で1車線じゃないですか。なので、下りはいつも前の車が超無駄にアウトインアウトをしているのが、面白いというか気になって仕方ないです。
ヘアピンコーナーの入り口で目いっぱいアウト側に寄る(車線の真ん中いても、右ヘアピンの入り口で左にハンドルを切る)ために、むしろ壁に突っ込むような形になって四苦八苦して曲がる人が非常に多いです。・・・普段飛ばしたりしない人が、「アウトインアウト」という伝説的な呼称だけ覚えていて上手くやってるつもりなんでしょうけど、右に目一杯曲がろうとする時にわざわざ左にハンドル切ったらつらいと、自然に考えましょうよ。

その後、日光宇都宮道路の日光口SAでそばを食って帰りました。冷たいそばもコンニャクみたいで美味かった(値段のわりに)ですが、あそこはやはり暖かい舞茸天そばがベストバイですね。

ま。リフレッシュできました。

リフレッシュして冷静に最近の仕事を整理した結果、「納期がぜんぜん間に合いそうにないほどスケジュールがきつい」という事実に気付いたことだけが残念ですが。



2015年5月8日金曜日

あの武甲山登山

GWに登山してきました。

渋滞を避けたいので電車の便が良いところをと思い、埼玉県の秀峰武甲山をチョイスです。自宅の窓からいつも遠くに見えているし、昔はバイクでのツーリング中にもよく見ていたので、あの独特の山容が気になってたというのもあります。

手持ちの本によると秩父駅からタクシーで登山口へ向かうのがセオリーのようでしたが、そもそもそこまでハードでもない山なんだからと思い、横瀬から徒歩で一の鳥居を目指しました。1時間ちょいくらいだったんじゃないかな?道中、武甲工業の設備などがあり、「何か”プレジデント武甲”がいる”武甲カンパニー”ってイメージあるな」などと同行のP君と妄想会話をたのしんでいたら、わりと飽きずに歩けました。




この写真はスケール感が出てませんが、なかなか巨大なコンクリートの、塊感・・・ソリッドというよりバルクと言った感じですかね?の建造物が、山肌に張り付くように食い込むように建設されて、ガシャガシャと音を立てて砂利のようなものを運んだりしています。

話逸れますが、ここがどうだかはともかく、一般的に鉱業には環境汚染や健康被害などの負の側面、暗い歴史があることは承知していますが、僕が持っている登山ガイド本で見かけたような見方、つまりこういったものを「自然を傷つける不快なもの」と切り捨てるようなものの見方はどうなんだろうと思います。

僕も子供の頃には自然は常に尊いという価値観をストレートに受け入れて、世の中のすべての開発を悪しきものと考えて憤っていましたが、この歳までずっと考えながら、ちょいちょい釣り行ったり山にも登ってみたりしているとですね。

別にすべての開発を必要悪と認めるわけではないし、そういう発想もまた拙いとは思うものの、さんざんそういったものの恩恵に預かって生活していて、また、そういう自然を犠牲にした開発のおかげで、ただの便利や娯楽のためでなく、本当に救われてきた命や価値というものがどれほどあるのかということもよく考えてみもせず、原生林のようなものばかりを神々しく尊いものと崇めるかのようなものの見方は、非常に幼いエゴによる態度だと思うのです。

石灰の切り出しで痛々しい姿となった武甲山ですが、その石灰はおそらくコンクリートとなり、方々でビルや橋や道になったのでしょう。それを作る時にまた自然が失われたりもしたのでしょう。中には無駄な工事もあったでしょう。そうやって生きてきた人間(社会)には罪があるだろうと思いますが、悪だというのは早計です。

罪もなく生きていけるものなんて人間以外にだっていやしないと言ってみても、人間はとりわけ多く大きな罪を犯しているのも確かですが、同時に人間ほど罪と向き合っている存在は今のところ宇宙に他にはいないのだから、そう恥じることもないのだろうと思えます。




まあ、そういうわけだから、こういうものもあるわけです。







武甲山、登頂して撮った写真はさほど綺麗でもなかった(もやっていたし)ので、そのあたりはすっ飛ばして、浦山口に下山した際の橋立鍾乳洞です。

巨大な岩盤に嵌り込むように、秩父巡礼の札所二十八番、橋立堂があります。ちょっと面白い光景です。

巨大な岩の質量感というのは人を圧倒するものがあり、それだからこそ畏怖や信仰の対象ともなるのだろうと思います。人間の、自然への畏れの顕現でもあり、反対側の登山口の鉱業設備との概念的な対称性が見事です。


そういう意味では、横瀬から歩いて浦山口に抜けるこのルートは(あるいは逆から行っても)、実に見どころのあるというか、考えさせられるところがあり面白いコースだと思いました。山登りだと言って山野草と高所の展望だけ見て「わーきれい」では小学生の遠足です。たくさん歩けてすごいだろー、というのならルームランナーでもやってればいいのです。大人はいろいろ勉強しているのだから、自分なりの考え方、見たものに対する解釈というのをする、という姿勢が常に必要じゃないかなと思います。


さて、それでも16時ころには駅に出て、そこから秩父駅まで移動したものの、連休だけあり特急も終電以外満席。

でもせっかくなので特急に乗ることにして、それまで散策をすることにしました。


で。



めんまぁぁぁああああ!!!





・・・てな感じの場所に行ってみました。いわゆる巡礼ですね。秩父札所巡りとかじゃなくて、ダメな方の巡礼。「あの花」です。

まあ、あれですよ。アニメですから、文化。これは文化なのです。

原始的な信仰では救いきれない世界を救ってきたのが科学により切り拓かれた技術、その技術を行使する人間の力です。しかしその力で救いきれない人の心を救うのが信仰です。この不安定な天秤を揺らし続けるのが文化です。その文化の、人類的に見てもっとも新しい表現のひとつがアニメです。わかりやすいアイコンとしての物語、寓話です。

この秩父を舞台にして、幽霊少女をロケットで送ろうというお伽話が語られるのは、ある意味では必然なのです。だから、武甲山に登ったらあの花巡礼、というのも自然。


・・・もう一度、強調します。

「武甲山に登ったらあの花巡礼、というのも自然」。


これを言いたいがために僕はこれだけ長い前ふりをしました。あー疲れた。


作品自体、もう数年前ですが、僕が見たのは去年の春です。ひょんなことで一話みて、いっきに全部見ました。主人公の不器用な生き様がもどかしくも、共感できるんですね。制作陣の思う壺なんでしょうけど。

この橋も何かバイクで通ったことあるような気もしてたんですが、記憶が定かじゃなくて。知ってる場所のような知らない場所のような。でも、訪問してみて何だかちょっとスッキリしました。ああ、こういう場所かと。以前から知ってたかはわからないが、今はともかく知ってると。


しかし未だに結構、あの花巡礼と思しき人達がいるのが驚きでした。「思しき」じゃないよな。すれ違いざまに「めんまが・・・」とか聞こえてきたし、スタンプラリーやってたり、ポスターと同じ構図の写真をしつこく撮ってたり。完全に、だ。好きなものにエネルギーをかけられるってはいいですね。失礼ながら、いかにもオタクという感じでちょっと挙動が変?な人もいましたが、別に迷惑になるわけじゃなし、微笑ましく感じました。

つうか、むしろ駅や居酒屋で、いかにも「山男」って感じの風体の男グループの方が、大勢のいる場所で傍若無人に叫んだり、人が大勢いるところでタバコふかしたり横柄な態度で地元の人に接したりと、見ていてムカつくような輩が何組か目立って残念でした・・・この日だけの偶然なのかも知れないけどさ。・・・・なんでああ、「俺は強い男」的示威的態度を取らないと気がすまないんだろうか。バカだからか。そうか。ガキが深夜の幹線道路でバイクの空ぶかししてるのと何にも変わらん。


まあ、あまり思い出しているとウザさが甦ってくるのでこの話はもういいや。




このエントリーは半分くらいネタとして書きましたが、実際、秩父というところは少し不思議な魅力がある気もします。西武鉄道のサービスもいまいちだよなと思ったりとか、秩父橋の最寄の駅の前の弁当屋?は夜逃げか?とか、いろいろと微妙なところもありつつも、やはり地質的な古さ(恐竜の時代のもっと前の岩石も多い)からくる奥行きの深い自然と、それだからこその信仰と鉱業と、関東の外縁部としての境界感と。

頻繁に通うことはないでしょうが、また行ってみたいかなと思いました。

2015年2月7日土曜日

ワインをよく飲んでます。最近。

なぜって、コスパが良いから。

ビールは高いし、ビールっぽいものは、しばらくは飲んでいたけど、やはりビールではないなあ・・・となってしまうし。果汁酎ハイは甘いし。

まあ、そうは言ってもそういうのも日本酒もウイスキーも飲むのだが、最近はわりとワインの頻度が上がってるという話。

だいたい、500円前後のしか買ってない。500円で軽く飲めば二日くらい楽しめるので、飯の方がワイン向きかと思えば、特に土曜日にはよく買う。

メモっておくと、よく買うのは


  • アルパカ
  • キンタ・ラス・カブラス
  • ヨセミテ・ロード (ヨーカドー系オリジナル)

この辺。甘くないタイプです。

甘いのもいいけど、最近はこういうのが気に入ってる。酎ハイもビターズのジンジャーが気に入ってるし。


ちなみにワインはいいけど、ひとつだけ気になるのは、ワインについてちょっと検索すると、すぐにムカつく感じの素人ソムリエが目につくことです。

いや、趣味でやってるんだろうし、当たろうが外れようが、美味いと言っても不味いと言っても、それは自由だろうなと思う。

しかし、ちょっと齧ったからとなんだかわかった気になって、「安物飲んでる奴は味音痴のアホ」みたいなのを言外に漂わせつつ、自分が「わかってる方の人間」になってることに酔ってるのを丸出しにした能書きを書いてるようなのが気に障る。

ワインというのは銘柄にも飲む人の社会にも、ある種の権威構造があるように思えて、それだからこそ、「少し知ると偉そうになる」という傾向は強く出るのかなと思ったりする。その辺が気持ち悪い。


そういえば、自分がワインをよく飲むようになったきっかけは、もうひとつ。いつだかにテレビの「世界に車窓から」みたいな感じの旅番組だかなんだかでフランスだかドイツだかの山の方の村が出てて、昼に農民が、外でランチしてたのです。水飲んでる人も多かったけど、ワインもあって、それを無造作にパンとかといっしょに飲んでいた。

なんかこう、由緒正しいレストランやオシャレ臭いワインバーやらで、オシャレな音楽を背景に男女がグラスを掲げてるみたいなそういうイメージじゃなく、日本なら漁港で漁師のおっさんがパック酒飲んでるのと近いようなイメージに感じてですね。

ああ、ワインつっても、あっちじゃただの酒なんだから、いつも高くて美味いのを気取って飲むというわけじゃないよなそりゃ、と。

「うまいワイン」じゃないならビールの方がまし・・・てなワケじゃないのだと気付いた。どの種類の酒だった、およそ高いのはうまいし、安いのはたいしてうまくない。でも、それぞれに味は違うのだから、気分や料理に合わせて、なんとなく楽しく感じるものを選べばいいのだなあと。

実際、何か食ってて一緒に飲むのがワインがいいかビールがいいか日本酒がいいか・・・てのは、ねえ。安いワサビじゃしょうがない、と言って刺身に唐辛子かけるのじゃアホだろ、というアレだと思う。



なんとなく、よもやま話でした。



けど、最後に俺もうんちくを。


安いワインを、いくらか美味しく飲む方法は、開けてすぐに飲むより、しばらくしてから飲むことだ、と以前に一度だけ言ったワインバーのマスターが言ってました。早い話が酸化させるのだと。

理由とかタイミングとか(確か、食事の準備を始める頃とか、そういうレベルだったかと・・・酔ってたしよく覚えてない)あった気がするが、ともかく、それはわりとそうな気がしてる。

二日かけて飲む、と言ったのもそういう理由もあって、1日目は半分飲んで、後は酎ハイとか飲んでたりして、二日に続きを飲むと、「おや、昨日よりうまい気がする」ということがある。

味が変わってるのは確かで、それは劣化とも言われるのかも知れないが、でも美味く感じることはあるんですよ。・・・不味く感じることもあるけど。まあ、それも楽しいかなということで。






2015年1月28日水曜日

血管拡張性肉芽腫、というものを取った

2週間ほど前に、鎖骨のあたりが気になって無意識にポリポリ書いてたらなんか手がヌルヌルしてきて、ふと見たら血だらけになってた(笑)。

ニキビのようなものを潰してしまったようだ、と思ったが、血がなかなか止まらない。大量に出るわけじゃないが、タラタラと流れ続け、半日ほどしてようやく止まった。

が、表皮がふさがっただけで内部の出血が止まっていないようで、血豆が出来る。

膨らましておいても良いことないかなと、二度ほど焼いた針でつついて血をぬいたが、やはりなかなか血が止まらず、止まれば血豆。


これはどうやら毛細血管か何かが開いてしまったに違いない、となると自分じゃどうしようもないなと思い、近所の皮膚科へ行く。


期待としては、レーザーか何かでシュッと焼いてくれんじゃないかと。


思ったが、一目みて図鑑もってきて「血管拡張性肉芽腫」と診断され、ここでは処置できないので紹介状を書きますとのことになった。

まあ、病名は予想通りというか、見た目というかそういうものだろうと思っていた通りの名前なのでよいが、切って貰えないのはちょっとがっかりした。隣に「レーザー室」なるものがあるから期待してたのに・・・。

わりと近くの総合病院とクリニックの二択を迫られ、ちょっと迷ったが、女医さんが「クリニックの方が気楽ですかね」というのと、総合病院は交通事故で行ったことがあり、でかくていかにも待たされそうだったなと思ったので(事故の時は救急車で行ったから待たなかったけどね!)、クリニックに。


自宅に戻ってからクリニックに予約の電話もいれておき、翌日に紹介状持参。今度は期待通り、その場で切って貰えたが・・・ちゃんと取らないと再発するのでと、レーザーなんかじゃなく、4ミリほどの血豆を黒目とした目のような形で2cmほど切開し、縫合すると。

良性腫瘍摘出手術、という名称になり、これで保険も貰えるだろうと(ドクターも「ふつうは出ると思うよ」と)ウキウキしながら切って貰った。


一応、手術用のベッドに寝て、局所麻酔して切ってもらう。

途中までは顔に布かけてたが最後の方は外され、首なのでちょうど頭上の手術用照明の金具部分に映り込んでいて、最後の2針は縫うところが見えてちょっと面白かった。釣り針みたいので1針縫って、あまり糸の両端を切る・・・けど、切るときに特に音がしない・・・ということは、さっきまでパツンパツンと何か切ってるなあ、と感じていたのは糸じゃなくて俺の肉だったのか!?


1週間後に抜糸ということで、めでたしめでたし。

費用は1万2千円ほどでした。




ただ、ちょっと残念なことが。

アクサ生命保険に加入していて、保険がもらえると思ったのだが。

よく、「日帰りから補償」とか「入院しなくても」とか生命保険でCMやってるでしょう?アクサのホームページにももちろん、そういうことが大書きしてあって、「あー、5万円もらえるんだー」と期待してたのに。


電話したら「入院してないなら対象外です。ガチャン」だった。

まあ、ガチャ切りは嘘だけど心理的にはそう感じるほどつめてえ感じだ。


紙の約款を改めてよく読むと、但し書きに「入院した場合の手術のみ補償」と受け取れる文言がある。じゃあ、1日とか日帰りってなんだよ!?と思ったが、つまり、「入院設備を利用して入院で保険点数がかかって、ただ即日に帰った場合」が日帰り入院だと。


おいおい、そんなの知らねえっつうの。


同じ病気で、同じ手術をしても、保険対象になったりならなかったりするのは解せない感じもあるが、実際、補償は病気そのものに対するものというよりは病気でかかる費用に対するものだとも言えるだろうから、まあ仕方ないのか。

ただ、だったらちゃんとわかりやすく書いておけよ、とは思う。いかにも、ちょっとしたことで手術受けてもばっちり保険が出るかのように宣伝しておいて、いざとなったら「実は・・・」と専門家でもなきゃ普通は知らないような定義を持ち出してくるってのは、詐欺みたいなもんじゃねえか、と。

もちろん、正確には詐欺じゃないし犯罪じゃないんだろう。それもわかる。けど、優良誤認を利用しているという感じは否めないよね。だから保険会社は嫌いだよ。


とりあえずアクサは解約しようと思う。うん。ほかの保険会社もどうせ同じなんだろうけど、気分的な問題として。

(つうか、以前に似たようなことがあり解約して他のとこに入ったのに、そこがアクサに買収されて自動的にまたアクサになってたんだよ。くそ。)



あー。5万円損した!


・・・いや、実際には、日帰り入院すれば、費用もたぶん1万じゃすまない・・・わからんけど、ぱっと検索した感じだと普通に3万は超えるのかな?なので、それで保険もらっても5万円の小遣いになるわけではないけどね。なんとなく気分的には、なんであれ貰えるんだこれ!と思ったものが貰えないという時点で損した気持ちが否応なく。

2014年4月13日日曜日

タコ焼き

子供の頃は、近所の巨大墓場の花見の出店でタコ焼きを食えることを何よりも楽しみにしていた。
銀だことかはまだ存在してない時代だったし、タコ焼き出す店なんてなかったし、関西は知らんけど少なくとも神奈川でタコ焼きは祭り以外では食えないモノだったと思う。稀に駅前とかにもいたが。
テイクアウトのチェーンが出来て、冷食にもなって、香具師のはやたら高くなって、すっかり陳腐化したタコ焼きだが。

テイクアウト系は大概揚げタコだし、冷食はやはり冷食だし。ということで、花見の時期…はちょっと過ぎたが、タコ焼きを焼いた。

相変わらず、取りかかってしまえばさしたる手間でもなく、かつ美味い。

ちなみにタコは300円ほどで、贅沢に使ってもタコ焼きは20個以上出来た。使った小麦が70g、玉子は一つ。ついでにメモれば水等が300cc。

ピックは持ってないので、割り箸を包丁で削って使っている。油引きは丸めたキッチンペーパーにアルミホイルで柄をつけたものだ。家族もわりと絶賛の、油が少ないクラシックなタコ焼き。

2013年11月8日金曜日

天ぷらの余りを復活させる丼

天ぷらが好きです。

しかしながら天ぷらは外で食べるとなかなかお高い。
そこで、自宅で揚げるに限るわという話しになるのですが、これがどうして、そうすると今度はついぞ、たくさん揚げすぎてしまう。

なぜなら、海老は冷凍ブラックタイガーでも10本入りしかなかったし、椎茸も一袋に10個くらい入っているし、ミズナなんて100円で山ほどになるし、肉も食いたくなったから豚はブロックで買ってしまったし、人参は切るとなれば1本は使ってしまうし、と、そういうわけで、冷蔵庫にある茄子や玉ねぎには出番すらなかったのに、ちょっと食えないくらいの天ぷらが出来てしまう。

仕方ないので食べきらない天ぷらは冷蔵庫にしまうのだが、これが翌日になるともちろん美味くはない。フニャるからだ。

これを、翌日になってもサクサクになるレシピを考えようとかいうのは不毛だと思う。中の食材がカピカピでないのだから、時間が経てばどうしたって水分が衣に移る。

そこで、「湿気ているなら湿してしまえ残り天ぷら」という格言通りに、めんつゆとともに卵とじにしてしまうわけだ。




そこまでは常識。だと思ってる。

が、この先が先日の発見だ。気付いてしまえば何のこともないのだが、今の今まで気付かなかった。

天ぷらは卵とじにしたら湿気ているのは気にならなくなるが、やはりあのサクサクした衣の食感が完膚なきまでに消失しているのは寂しい。

ところがだ、よく考えればサクサクした衣があるじゃないか。

天かす、ですよ。

さきほど俺は言った。「中身がカピカピででもなければ」湿気てしまう、と。

しかし、天かすにはもとより中身などない。なので、湿気ない。

だから、天ぷらを揚げた際に、必然的に生じてしまう天かすを、取っておいて翌日の天とじにかければ、いくらかでも天ぷららしい歯ごたえを残した天とじ丼が食えるのだ。

・・・うまいよ。紅しょうがと青海苔、七味もかけたらうまい。限りなく粉モノ系になってくるけど。


※なお、写真の天かすは市販品。揚げてる時にはまだ、この手を思いついてなかったので、今回は天かすは捨ててしまっていた。市販品のストックもあったし。

アサガオとアントシアニン―ずぼら実験コーナー

先日、年中の娘と図鑑ぽいものを眺めていたら、紫キャベツ液の実験の話が載っていた。
あー、そんなのあったなあ、と思いつつ。

紫キャベツを紫たらしめているアントシアニンという色素が、中性では紫だが、酸性では赤に、アルカリ性では青緑色に変わるというもの。

便利な世の中になったもので、検索すればすぐにそれはアントシアニジンなるフラボノイドの一種であって・・・というWikipediaのページもすぐに見つかるが、それはまあどうでもいい。

俺がそのとき思いついたのは、そう言えば朝顔もこの色素を持ってるのではないか、ということだ。単純に色がそっくりだし、青紫~紫~マゼンタと言った花色の差はまさにこれではないかと。

それも検索すればすぐに答えが出たのだろうが、そこは敢えて検索しないことにした。

なぜなら、自宅の屋上に夏に植えた朝顔から落ちた種が、秋に勝手に芽を出し、ヒョロヒョロながら花をつけていたことを思い出したからだ。

これは夏に撮った写真。

屋上から花をひとつ摘んできて、白い小皿に乗せ、いざ娘とともに実験開始。

花びらをハサミで切って3片のサンプルを用意し、1つには水道水を、もう1つには重曹(洗剤として買ってあった)の水溶液を、もう1つにはポッカレモンを垂らす。

花びらはそうそう水を吸わないので、ピンセットでつんつんと突付いて細胞を壊し、液体と色素を反応させるようにすると・・・




見事に色が変わった


写真の右上が、水道水。花びらの本来の色だ。右下がアルカリ性の重曹溶液、汁も花びらもだいぶ赤味が抜けて青くなっているのがわかる。左下がポッカレモンで、思い切り明るいピンクで、ほとんど青みが残っていない。


後から調べれば、朝顔はもちろんのこと、ナスその他、かなり多くの植物がアントシアニンを持っている・・・というかだいたい紫系の花はみんなそうなくらいの勢いのようだが、やはり簡単なことでも実際にやってみるとなんとも不思議な感じ。

どんな珍現象でも一発で動画が検索できて、詳細な仕組みの解説もすぐ読めるインターネットを、俺は少しも悪いと思わないし毎日毎朝、娘とともに大いに活用している。

が、だとしても、やはりたまには手を動かして、実際に試してみるというのは、大事かどうか以前に面白いことだと思ったのであった。






2013年10月28日月曜日

Kindle(paperwhite)をついに購入してしまった。驚いている。

IT業界、しかも生き馬の目を抜くWeb界隈に仕事を持ちながら、パソコン好きでもガジェット好きでも新し物好きでもない俺は、タブレット端末について長らく傍観してきた。

iPadは正直欲しいと思っているが、最近(2年ほど前)にiPhoneを買ったばかりだし。まだMacBook(初代アルミボディの)壊れてないし。安くなったとはいえ、3万も払ってインターネットを見るための端末を買おうと思わない。

ただ、一方で電子ブックリーダーは少し気になってた。本を読むのは嫌いじゃないが、本に投資を惜しまないほど本好きではない俺としては、安く本が読める電子ブックは魅力がある。

そして、電子ブックリーダーと言えばKindleだ。もちろんpaperwhiteだ。Kindle Fireを買うくらいなら迷わずiPadを買う。

何せ1万円を切る低価格がまず素晴らしい。そして、俺には先日、突然Googleから振り込まれた1万円弱の臨時収入がちょうどある。・・・期待してなかったがブログなどに表示していた広告の成果が数年かけて支払い基準である100ドルに達したようだ。たぶん。

Kindle paraperwhiteはもちろんモノクロなのだが、今時モノクロだぁ?とバカにしてはいけない。何せ、液晶ではないのだ。厳密には違うかも知れないが、子供の頃に磁石ペンで書いては消してをした白板のおもちゃ、「タカラのせんせい」と似た方式。反射光で読ませる(暗所用のライトはあるがバックライトでなくフロントライト)ので、目にすこぶる優しい。・・・最近、通勤電車で1時間弱もiPhoneで字を読んでいると目が疲れて仕方ないのだ。

さて、久々にハイテク端末を買ってしまったので、そこはかとなくレビューとかしてみる。

Amazonで買ったら翌日には届いたわけだが、専用の黒い箱をお菓子の箱的に破いて開けたところがこれ。





ここの時点では、あー、シンプルだね。というくらいの感想なのだが、この後にわりとビックリする。写真の中でスクリーン部分にKindleの図といくらかの字が書いてあるが、これは画面に表示されているものだ。あまりにも自然で、印刷物が貼り付けてあるのかと思ってしまった。


そして説明書。




20ページほどあるが、10ヶ国語ほどで書いてあるので、日本語のページは写真に写っている分ですべて。読むまでもない。

後はスイッチを入れると、チュートリアルが始まるので使い方はわかるようになってる。スイッチは1つしかないので、どうせそれを押す以外にやることはないし。


購入時点では本がない。俺はiPhoneのKindleアプリ(あるの?)になど興味はなかったので、この時点では電子書籍を何も持ってない。

さっそくiPhoneのAmazonアプリ・・・からは買えなかったので、ブラウザでAmazonにアクセスして、「Kindle 無料」とか検索。すると、Amazonの無料Kindle本カテゴリページがヒットしたので、そこで片っ端から見て行き、50冊ほども購入してしまった。

これ↓
Amazonのサイト内のKindle無料本一覧 


タダだと思うと読んで見ようかと思う本は意外とあるものだ。「学問のすすめ」とか、「日本国憲法」とか「大日本国憲法」とか。日本の植物分類学の大家、牧野博士の著作や帝都物語でヒーロー的に描かれている寺田寅彦の本とか。芥川龍之介やら。

落とすだけ落として満足して、読まないどころか端末はリビングに放置して寝たのだが、朝になったら目ざとくKindleを発見したザッキー(年中の娘)が「パパ起きろー!なんかあったー!あれなーにー?」と。

本しか読めないしゲームも出来ないよ、と言ったのだが、これ使ってみたいと譲らない。ので、どうぞと貸してやって、俺は釣り道具の手入れなどしてたのが。

落としておいた本の中で、菊池寛訳のグリム童話「白雪姫」を見つけ、読破していた。半分くらいまでは音読してたのだが、途中からはむふー、むふーと鼻息だけうるさくしつつ集中して読んでいた。

雪が、鳥の羽のように、ヒラヒラと天からふっていましたときに、ひとりの女王じょおうさまが、こくたんのわくのはまった窓まどのところにすわって、ぬいものをしておいでになりました。
こんな感じの文章なんだけど。


実は、電子インクの読みやすさ以上に、さらりとKindleを使いこなし(その後、他の本も物色していた)、オリジナル版でわりと幼児には難しい書き方になっている本を読めるザッキーにこそ驚いた。我が子ながら現代の子供なんだな・・・。

仕事の一環で、2年ほど前にアメリカのIT系のカンファレンスに参加したことがあるのだが、そこでは、少なからぬセッションで、電子ブックは完全に幼児もターゲットに含めるべきものとして扱われていた。

紙の絵本もまだ読ませたいが、しかし、これからの子供は・・・とりわけ、読書が好きな子供ならば、こういう方法で本に接していくのだろう。より早くからより多く、自由に読書が出来るというのは、文化的には前進だなあ、と実感として、しみじみ思った。


2013年10月12日土曜日

マルちゃん正麺塩油そば オシャレ風味

巷で流行しているらしいマルちゃん正麺のアレンジレシピ。…いや俺はむしろカスタマイズと呼びたい。まあいいや、ともかくそれを試してみた。試してみた、というほど構えてやったものでもないのだが。

タイトル 正麺油そば オシャレ風味
材料
  • マルちゃん 正麺 塩味 1袋
  • 冷蔵庫に取り残された萎びかけのレタス 数葉
  • 生卵 1つ
  • 黒胡椒…俺はギャバンの粒を京セラのミルで挽いている
  • 冷蔵庫のタッパーに取り残された僅かなメンマ

作り方
  1. 鍋にたっぷりめの湯を沸かす。1リットルくらいだったかな?捨てるので量の詳細はどうでもいい。
  2. まず、レタスを色よくゆがく。しゃぶしゃぶ程度。鮮やかなライムグリーンと透明感に配慮する。俺は。
  3. レタスは取り除き、麺を茹でる。堅さはあなたの自由だ。
  4. 丼に麺をとる。多少は湯も入ってもいい。つゆは、わりと塩っぱいから。火を止めてお湯だけになった鍋に生卵を割り入れる。
  5. 麺に付属のつゆをストレートでかける。そして、黒胡椒を高い打点から華麗かつ豪快に振りかけ、つゆとともに混ぜる。
  6. さきほどのレタスを麺上に素敵に敷き詰める。
  7. 鍋の中を見てみよう。そろそろ玉子が微妙に温泉玉子風になっているのではないかい?そいつをうまく掬って、レタスの上にプットオン。実際のところは、俺は菜箸で軽く抑えてまず湯を捨てたね。
  8. メンマをトッピング。なければ他の何かでいんじゃないかな。ツナとかどうだろ?生姜焼きとか、さばみりんとか、冷蔵庫から発見される適当な具、強烈過ぎないものなら何でもいいのではないかと思われる。
  9. 黄身を壊していただきます。ラー油ちょっと垂らしたらいい感じだった。

味薄いと言われる正麺塩だが、なにせストレートだから十分過ぎるほど塩っぱいです。そこはレタスと玉子が緩和してます。そういう意味でも、玉子の黄身は固めない方がいいだろう。

あと、油そばと言っても油少ないです。お湯と捨ててる分、普通に作るより減ってるくらいだろう。つゆと共に、油を添加してもいいかも。普通にサラダ油あたり。




ちなみに、どこが「オシャレ」なのかと問われれば。

真っ白い丼に、緑の葉っぱがあって、玉子が乗っていて、香辛料なんか振ってあれば、カフェとかデリとか名乗っていいのだろうと俺は信じている。
…実際、写真のこれの横にプチトマトでも置いておけばもうバッチリそんな感じじゃね?








2013年8月12日月曜日

腕時計を新調した。 GW-M5610B-1JF

安いデジタルウォッチを使っていたのだけど、ちょっと精度が不満なのと、長く酷使して樹脂が傷んで来てたのが前から気になっていまして。
臨時収入がちょっとあったので、買い替えることにしました。

ま、私も40に迫ろうかという年齢です。
仕事の際にも身につけますし、腕時計には拘ります。

で、よくよく検討した結果、これにしました。

G-Shock GW-M5610B-1JF

…買い替える前のじゃないよ。これを買った。ちなみに買い替える前のはDW5600E。

(参考)


…変わんねえじゃんって?いったい何が拘ってんだ、と?

時間の正確さですよ勿論。電波時計が好きなんです。なにせ、ちゃんと動作を続けている以上、1秒と狂ってないわけで。今回購入したGW-M5610は世界主要6地域の電波を受信する電波時計かつソーラー発電(まあ、カシオのお家芸的な)です。

時計に求めるのは時間が正確にわかることだよ。決まってんじゃん。だいたいわかればいいなら現代生活に腕時計なんか必要ない。携帯電話を出すまでもなく、街中に時計はあるし。そうではなく、俺は秒単位で正確な時間が知りたいのだ。別に命に関わるミッションがあったりはしないが、終電を逃すかどうかには関わるし、まあ、気持ちの問題だ。幼い頃からアンチ5分前行動を掲げる俺としては、12時に待ち合わせというのは12時00分00秒に待ち合わせという意味である。

Gショックに拘るつもりは無かったのだが、価格は手頃で品質(とりわけ機能性)は素晴らしいし。釣りにいったりする時も使うので生活防水系の電波時計は却下だし。と絞ってくと結局Gショックばかりで、それなら気分を変えて多針アナログの最新シリーズ「スカイコックピット」とか買おうかなと思ったのだが、よく考えたらそれは今年の正月に会った友人が着用してた気がするし。

ま、それに今まで使ってたものが、やはり軽くて薄くて気に入っていたというのもあって、新鮮味がねえなあと思いつつ同一デザインのを買ってしまった。

とは言え、よく見ればいろいろ違う。アクセントカラーが俺のフェイバリットカラーであるライムグリーンになっているのは見てすぐわかるが、盤面の文字や枠の配置も微妙に違う(バッテリーインジケーターなど増えてるし)のみならず、小さい文字も奥行きを感じるようなデザインに微調整されていたり、あと、液晶の文字が銀?だった。一見すると「なんか薄い?」と思えるのだが、よく見るとアナログ体温計の水銀みたいな金属光沢がある。液晶自体も通常より緑になっているので、全体に微妙なサイケデリック感が出ててカッコいい。

いやあ、腕時計ってのは日々着用するものなので、新調すると何だか楽しいな。


…ちなみに、これをAmazonで購入する前日に職場でふと気付いたところによると、俺のすぐ近くの席で働いている同じくらいかやや年下くらいの派遣社員さん二名、並んでタイピングする左腕には揃ってROLEXが輝いていた。まさか男同士でペアルックでもあるまいに偶然なんだろうが。よく見る、銀でベゼルだけ黒いアレだし。

うお!俺が1、2万円の腕時計の選択で悩んでいるのに!と思ったけど、0.4秒くらいで、ああ、でも俺はそういうのいらないわ、と思い、むしろ迷い無く一番シンプルなモデルを買いました。

まあ、最近は通勤電車内とかでも特に同年代の男がどんな腕時計しているか自然と気にして見てたけど、皆さんエクスペンシヴなものを使ってらっしゃる…!ま、半分くらいは逆にそれこそGショックとかだったけど。もっとも、高級腕時計マニア?というのは、時を計るという以上の、ロマンというか何か主観的な価値を認めてのことなのだろうから、それが悪いとか無駄だとか言うつもりはないのだが、俺はやっぱそっち方向には行けないなあ。
高級メーカーの歴史や蘊蓄自体は嫌いじゃないんだけど。美容院でムック本とか読むし。ただ、俺はそれを自分で持つという気にはならない。喩えれば、メルセデスは凄いしやはり良いよな、と思うけど別に自分で買おうとは思わない、みたいな。それが高いと思わず買えるようになれば買ってもいいと思うかも知れないのだけど。そんな感じだ。


ところで、やっぱり高い腕時計とかしてるといくらかモテたりするんでしょうかね?…まあ、私はもうモテを追求する必要もないのでどうでもいいのですけどね。だから、仮に仕事が大当たりするか宝くじにあたるか、そんなことがあっても、私はROLEXを買うこともないとは思います。そうだな、その時はオメガかタグホイヤーでも買おうかな(笑)



2013年8月7日水曜日

王禅寺で子どもとマス釣り

日帰り帰省のついでに、実家近くにあるFISH ON!王禅寺に行ってみた。

と言っても、今回は俺は釣りをしてない。4歳の娘がよく家で磁石でくっつくオモチャの釣りをしているので、「今度、本物の魚釣ってみる?」てな約束をしてたのだ。

直前に気になってホームページから問い合わせたところ、保護者同伴の必要はあるがチケットは釣りをする人だけ、つまり子どもだけでもOKだそうで。

…入場するなら大人も買って下さいとか言われちゃうと、本気仕様のタックルを持ち出さざるを得ない俺が、良きパパから一人のストイックな釣り人に戻ってしまう恐れがあったのだが、それは杞憂で済んだ。よかったよかった。

さて、当日は昼間は実家で過ごし、夕方16時頃、涼しくなり、オモチャもなく、いとこもいない実家で親父はアルコールがまわり、娘が「つま…!」「つまら!(ない)…」とブツブツ呟き出したところでお暇し、釣り場へ。

メインのポンド二つは水温上昇につきお馴染みの夏季閉鎖中で、小さな池しか開いてないので本気客が少なく、混んではいない。

子どものタックルは、前日に近所の上州屋で見繕ったスペシャル仕様。


  • ロッド Shuttle 渓流 120 (SZMこと上州屋)
  • ライン レベルライン 1.2m (ダイワ)
  • ハリス 将鱗1号
  • 毛鉤 エルクヘアカディス 自作


まあ、結局ロッド以外は俺の持ち物からの拠出で。将鱗とかいつのだよ?って感じですが。

最初は鱒レンジャーでも買おうと思ってたんだが、店頭在庫がなかったのと、リールは難しいかなと。
で、その娘専用ロッドは3本継の振出で1.2m、まあ娘の身長に近いので何とか扱えるんじゃないか?なにせ、680円という価格が素晴らしい。

ま、テンカラは釣れるので、何とかなるだろと思いつつ、射程距離が2mしかないので届かないと困るなあというのが心配。

が、実際池に着いてみたら岸から1.5mくらいのところに結構魚が溜まってた。ラッキーだ。娘の言い方ならラッキーポイントだ。

結局、振り込むのは殆ど俺が手を添える形になったのだが、一応ロッドは娘に握らせて、一緒に「えい!おりゃ!よいしょ!」などと気合いを入れつつ。

あ、今お魚が食べに来たよ!とか、何か毛鉤はニセモノだってバレちゃったみたいだね、お魚も意外と頭がいいからねえ。釣れないよー、と言われれば、オモチャと違って本当の釣りはそんなすぐ釣れないんだよ、パパだって1日で1匹しか釣れなかったこともあるんだから、とか、そんな話しをしながら。

意外とすぐに釣れました。娘的にはそれでも多少待ったつもりのようだけど。やはりこういう場所でテンカラは強いなあ。
なので、俺は一人で管理釣り場で真面目にテンカラをやろうとは思わない。やるとしても気分転換程度。つまりゲーム性が足りなくなるほど、釣れる。

見事にヒットすれば、娘にロッドをまかせて自分はネット担当。「よーし、どんどん釣ろう!」と無駄に怪気炎をあげる4歳児が周囲の反感を買わないか心配になったが、そんな心の狭い人はいないよね。うん。我が娘ながら可愛い声だし。

最終的には1時間ほどで8匹釣って娘も満足。



娘は、10匹釣れたら釣り名人です!ラストチャレンジ!とか何とか言ってたが最後はバレが連続してるうちにお腹が減って蚊に刺されたのでギブアップとなった。

涼しい時期になったらまた、もうちょっとゆっくりやれるといいなと思いつつ、帰路に着く。近くのバーミヤンでラーメンを食い(俺はもうちょっと豪勢なものを食ってもよい気持ちだったのだが、娘は最近ラーメンが大好きだ)、空いている首都高で埼玉へ戻る。娘は首都高からスカイツリーの色を確認したがっていたが、C2に入る頃にはすぴーすぴーと寝息を立てて熟睡だった。

ま、最終的には小学生くらいになったら、足場のよいどこかの川にでも、ハイキングがてらで行けたらいいなと思う。…いや中学生くらいまでは一緒に来てくれないかなあ。



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埼玉古墳群—さきたま風土記の丘

曇天を見上げる丘に屹立する埴輪。…そもそも、これはただの丘ではない。遥か1500年以上もの昔、古墳時代の前方後円墳である。




………埼玉人にとっては語るまでもないドグマに過ぎないのだが、さいたま市は埼玉県内における一都市である。もちろん、こんなことは神奈川に生まれ東京を経て埼玉へと何となく転居した俄埼玉人である私だって最初から知っていた。

だが、埼玉はさいたま市を包含する埼玉県であるよりはるか以前に、さいたま市の外にある行田市埼玉であり、さいたまは「さいたま」である前に「さきたま」であったということは、つい最近まで知らなかった。きっと、生粋の埼玉人には常識に過ぎないのだろうが、私は恥ずかしながら埼玉県内に転入してから10年近く経ってようやくその事実を知った。

最近は休日も家で料理したりパウンドケーキなど焼いてみたり植物を育ててみたりと、ずいぶん可愛らしく過ごしてしまっていたので(娘が風邪引いたとか天気が悪かったとかもあった)、久々に少し一人で外に出ることにして、かつて通勤用に買って今は活躍していない原付二種のスクーターで、さいたま市南部よりおよそ50kmの埼玉へ、古墳時代のロマンを感じる散歩へと出かけた。

国道17号と16号という、これまた埼玉人の大動脈的なバイパス道路をつないで、一時間強。今回は原付なので国道だったが、東北高速道路を利用すればアクセスは極めてよい。いずれにしても、わりとあっけなく目的地に到着するが、ここでひとつ注意しておきたいことがある。…ぜひ、水田や畑、住宅地や商業地を通り抜けるバイパス路を走りながら「このあたりは真っ平らだなあ」という感想を持っておきたい。なにせ関東平野のど真ん中だ。ひたすら平地である。これは後ほど、重要な知見となる。

さて、さきたま古墳公園である。ちなみに「さきたま風土記の丘」は文化庁における風土記の丘事業での名称である。詳しくはWikipediaでどうぞ。

駐車場は広く、休日ながら十分な空きがあった。駐車場の近くには定食屋もあったし、駐車場内でやきそばなども売っていた。…私は途中のコンビニで買った菓子パンしか食ってないけど。


そして、駐車場のすぐ脇にある丘?のような雑木林。この時点で既に貴方は前方後円墳を目撃している。一説にはアポロン・ウィンドウとも呼ばれ、地球のエネルギーを止める鍵穴であるとされる遺跡だ。




そう、これも小型ながら前方後円墳である(愛宕山古墳)。歩きながらよく見れば


こんな感じの例の形をしていることがわかる。…先にも述べた通り、鍵穴型と言った方が早いか。このあたりは元は沼なので、自然に土地の形がこのように凸凹することはそうはない(と私は思う)。この土の盛り上がりは、古代人がいかなる方法にてかいかなる想いでか、せっせと積み上げたものなのだ。積んだ本人もまさかこの情報化社会と言われる時代にまでこれが残るとは想像していなかったろう。

…とは言え、勝手な想像なんだが、古代人、とくに作業者はそんなマジでは作ってなかったと思う。エジプト展とか見てもそう思うんだけど。一応、復活するとか輪廻するとか、そういう建前はあるんだろうが、「…とか何とかいう話らしいぜ?まあ給料出るなら丘くらい作るわな。丘陵だけに。」くらいのところが本当ではなかろうか。社会構造や生活水準は変わっても、人間の本質は長い歴史の中でもそう変わってはおらず、古代人だけ現代人に比べてどいつもこいつも糞真面目というのは考え難い。

そのまま歩いて他の古墳へと向かうことも出来るが、駐車場から一度道路に出て横断し、まずは埼玉県立さきたま史跡の博物館、略して博物館を目指す。

道路を渡って5分も歩かないが、その途中にも瓦塚古墳という前方後円墳がある。こちらは愛宕山より大きく、木も生えていないのでより前方後円ぶりがわかりやすい。

周囲を歩いて写真を撮っていたら、こんなベストショットが撮れた。



トンボを補食するアブ
ムシヒキアブ(虫挽虻)という仲間らしい。トンボも肉食で空中で蝶など他の昆虫を捉えて補食するわけだが、そのトンボを空中戦で制する、ある筋では「最強」と呼ばれている昆虫のようだ。

これも或いは、古墳時代からの変わらぬ景色なのだろう。…とか言って、昆虫の生息域は地域環境に大きく影響を受けるので、その頃にこの場所にこいつらが棲息していたかはわからないな。しかし、力で圧倒する強者は、より強い者に滅ぼされるという景色はきっと同じだ。


あ、古墳でしたな。




これがその瓦塚古墳。おー、確かに前方後円墳だ、という感じ。

さて、そこから博物館に向かう道すがら、移築された古民家が2棟ほどある。



茅葺き屋根と縁側が懐かしい。…いや、懐かしいのは気分だけ。錯覚。私はこんなスタイルの家には住んだことがない。幼少の頃住んでいたのは鉄筋コンクリート製の団地だったし、祖父母の家もいわゆる文化住宅的なものだった。

それでも、縁側に座って茶(持参したペットボトル)でも飲めば、それなりに「あー、ニッポンの夏だ」なんて感じるのだから人の郷愁など意外に軽薄なものだ。

さて、肝心の博物館。

なんと、偶然、本日から入館料が値上げされていた。…とは言え大人200円。まあ、高くはないか。

なにせ、国宝が見られるのだから。

 出よ、悠久の刻を超え、その姿を顕し給え!


金錯銘鉄剣!


国宝 金錯銘鉄剣
金錯銘鉄まで全部、金。すげえ。…まあ、それはさておき。これはここ埼玉古墳で発見された鉄剣なのだが、金で文字が書いてあり、その内容からこの持ち主がヤマト王権に仕えていたと読み取れるために、王権の勢力が関東に及んでいた証拠になったのだとか。たぶん。

字が、読めないものもあるが普通に読める漢字もあるので、ちょっと親近感が湧くな。実際のところ悠久なる刻の力は余りに強大だったようで、刃はボロボロだ。が、同館に展示してあった太刀と同様なのかなと推測すると、片刃の直刀だったのではと。反ってない日本刀スタイル。
ちなみに、写真は最初撮ってはいけないのかなと思っていたけど、係の人に聞いたら条件付きでOKでした。ガラスにカメラを押し付けたり、ガラス蓋にカメラを落とす、フラッシュをたく等の行為が問題ならしい。とは言え、横で見守られていると落ち着いて撮影できず一発撮りで「どうもー」と退散したのだけど。

博物館では常時臨時ともいろいろ体験学習イベントも開催しているようで、こじんまりしているが活発な印象だった。展示は少ないが、古墳時代なるものについてざっと学習できて国宝も拝めるので、200円の価値はあるだろう。

ここで知識と地図(パンフレット)を手に入れて先に進む。これが重要なポイントだ。この予習をしておくかどうかで、この先のコースで見るものが「ただの不自然な丘」に見えるか、「貴重な文化遺産」に見えるかが違って来る。そう、世界の見え方は主観、ひいては知識で決まるのだ。




奥の山古墳
おお!木立の中から望む墳墓丘。生命あってこそ陰をつくる樹々と、遮るもののない光を浴びながら死せる金字塔の、そのコントラストのなんと哲学的なことか。

…いや、後付けですけどね。いま考えただけの。


奥の山古墳の先にはほかにもいくつか古墳があり、その先で一度道路側に出ると前玉(さきたま)神社がある。



 「前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱」を祀っており、恋愛成就にご利益があるとかないとかだそうです(公式より)。

こちら、二子山古墳。かつての姿と同じく、濠に水を讃えている。ただ、水を入れているとどうしても古墳が浸食を受けてしまうようで、もうすぐ埋め立ててしまうらしい。水ありで見るなら今のうちだ。


濠の水まで再現済みなのが特徴の二子山古墳

続いては、埼玉古墳群の外れに位置する将軍山古墳。ここには、博物館の分室的資料展示室がある。…古墳の中に。



将軍山古墳展示室
置いてあるものや人は再現した模型なのだが、室は本物。なんだか普通の博物館と逆な感じ。館内は前方後円の「後円」部分の内部だが、コンクリートで補強されているので普通のビル内のよう。…とは言え、夏なのに、エアコンのせいとばかりは思えないほどいやにヒンヤリしていて、何よりどこか土臭いのが変なリアリティを醸し出している。


将軍山古墳と、その向こうの丸墓山古墳

将軍山古墳の上には埴輪(ほとんど円筒形)がずらっと並んでいる。どうやら、これが埴輪というものの正しい使い道らしい。写真の右手にちょんちょんと出っ張っているのがそうだ。

その後、


実は日本一大きな円墳、丸墓山古墳。

円墳に登ったり。6世紀前半というから、俺の乏しい歴史知識でも「大化の改新」の100年くらい前か、とわかる。そうか。麻呂っぽいファッションの時代だな。ちなみにここは、「のぼうの城」という映画で最近有名になった場所。登れば忍城(再現したもの)を見る事もでき、石田三成が陣を置いたとか何とか。


その円墳から隣の前方後円墳を臨む。
古墳が権威の象徴だとか言ってみても、大きいは大きいが大した大きさでもないだろう、とか思っていたが、今回実際に登ってみて考えを改めた。

この平野部において、この高さの造築物の上に立つと、随分と遠くまで見張らせる。ビルが無かった古代なら、もっと遥か遠くまで広く臨むことが出来たろうし、秩父の山並みや富士山も見える。これはちょっと凄いことだと思った。古代の人間は気軽に高速道路で遠くへ出かけるわけでもないし、Google Mapもないわけで。ここに登って初めて彼方の世界を目にした人びともいたのだろうから、その感動はさぞや、と。



古代蓮

公園内の池には行田での工事現場から偶然発見され目覚めたもので、放射性同位体による年代測定(たぶん)で1400年前のものと推測される種が発芽したものだとか。

でもどっかで見たことあるなあ、と思ったら後日、自宅のすぐ近くの公園の池に「古代蓮」という立て札が立ってた…。ま、県内なので株分けでもしたのだろう。






最後に比較的どうでもいい、「埼玉県名発祥の地」の石碑。いやどうでもよくない。埼玉県人にとっての金字塔、これがなければ入間県とか熊谷県か、あるいは大宮か浦和になってたか、さもなくば奇をてらってとまと県とかになってたかも知れない。さいたま、前玉、幸魂。この名前は重要である。たぶん。


これで本当に最後。公園の出入り口近くの目立たない場所に、やけにファンタジックなポエムを穿った石碑がある。


東方より光は射すと王の柩 現れて輝る一ふりの剣

まあ、稲荷山古墳の剣の話だね。



2013年7月7日日曜日

パウンドケーキを焼いたらすげえ膨らんだ

もうなんか不自然なほどに。

別に変なもんは入れてないのだが。まあ、冷めたら凹んで普通によく膨らんだ感じになった。

あんまりにもよく膨らんだので、凹まないようにとしっかり焼いてたらちょい焼き過ぎた気がしたが、外周がサクサクして美味いのでむしろ成功な感じだ。

材料も手間も簡単で、それでいてお菓子作り感は堪能出来るので、最近娘と一緒によく焼いてる。
やはり短期間で何回も作ってるとコツが掴めてくる気がする。…我ながら美味い。