クリエイティブであるということは、主観的であるイメージがあるけど、実はとても客観的であることだ。
…というような話を、今日、たまたまテレビで見かけた誰かが言っていた。なんか大学のゼミ?イベント?のようなもので学生に指導していたなかの一コマだったような。
15秒くらいしか見てない(「いないいないばあ!」の録画に切り替えた)のだが、冒頭の話、なるほどなあ…と納得した。
おそらく、語っていたのは「佐藤可士和」という人で、このプロジェクトの一環で学生を指導している様子のドキュメント番組だったっぽい。この人、Wikipediaで見たら経歴すごいな。デザインや広告に疎い俺でも知っているものが多いし、毎朝見ていてなかなか面白いキャラクターだと思っていた「えいごであそぼ」のモッチーとケボーも作品のひとつらしい。俺は一見汚らしいけど実は何でも出来る器用かつマッチョなケボーがクール過ぎで好きだ。
それはそうとして、「クリエイティブ」という言葉。
一般には、絵的なものをデザインする職業の人、あるいは芸術家に対して用いられるイメージがあると思う。それはだいたい正しいだろう。
ところで俺の仕事はシステム開発だ。短絡的に言えばプログラムを書く仕事だ。論理の顕現であるかのような存在、プログラムコードを書く、書くために設計する、テストする…そういった仕事。
これはアートのようなもの、音楽やグラフィックデザインのようなもの、そういったクリエイティブと言われる仕事と対極をなすと捉えられることが多いのではないか…と俺は思っている。
しかし俺は、プログラミングはクリエイティブな仕事だと考える。やってる人にはわかることだろうが、同じ機能を作っても、コードの書き方はいくらでもある。
よりよいコードは論理として美しく、そして並んだ文字を見たその見た目さえもが美しい。そのコードの振る舞いを記述した設計資料に書かれる図表も美しくなる。はずだ。
まあ、そうは言っても、言うのとやるのは大違いで、簡潔にまとめた要件を奇麗な設計で実装していた…はずなのに、修正を繰り返すうちにいつのまにか自己矛盾の臭いに蓋をして積み上げたガラクタ置き場のごときコードになってしまうのが常ではあるのだが…それは結果であって、そうなってしまうものに対して「美しい完全性」を追求して具現していこうとする姿勢がつまりクリエイティブだと思うのだ。
ただ、市場も何も厳しい中で、プログラマ風情が「クリエイティブでなければ」などと宣ってみても、会社や同僚からは「寝言言ってないでさっさと要るモノを作れ」と言われかねない。
しかし、そういった見方に対する回答が、先の一言にあるように思った。
よいシステムには、いかにプログラムの中に自分の思い込みを埋め込まないかが求められる。要件の確定、設計、コーディング、テスト、あらゆる段階で思い込みは封入され、それはバグという形で現れる。
つまるところ、思い込みを排除し、あるべきもののあるべき姿や振る舞いを適切にコーディングできれば、それはよいシステムになるのではないか。
創造とは、自分の外部に自立した何かを生み出す行為であるならば、これは常に主観の外にあるものだ。
ならば、開発者自身の手を離れて他人のために仕事をするプログラムを作るという行為、これは間違いなく創造的な行為であり…”クリエイティブ”な行為であるべきだ。
…冒頭のがちょっといいフレーズだったから会社で部下に蘊蓄垂れようとメモするだけのつもりだったのだが、なんだか我ながらイイ感じの話にまとまったな。…と自己満足して寝ることにする。
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